少年愛之美学

守備範囲がやや広めの腐女子による鑑賞と思索。

「1999年の夏休み」、と少女が少年役を担わなければならなかった理由について

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半ズボンを履き、「僕」と自称し、詩的な台詞を繰り出すのは、少年を装った少女たちである。

1999年の夏休み」、萩尾望都の漫画『トーマの心臓』のストーリーを下敷きに、舞台をドイツギムナジウムから日本の寄宿学校に移し、ホラーファンタジーの味を加えた、邦画であります。登場人物の四人の少年を演じるのは全員少女。個人的なお話をすると、リボンの騎士とかベルばらとかイケパラとか、「男と思いきや実は女でした!」っていう展開が少々地雷気味というか、男同士の関係に固執する過激派腐女子にとっては敵みたいなところがありまして、それとは多少違うのかもしれませんけれどもこの「1999年の夏休み」も、何で少年役に少年を持ってこなかったんだ、という妙な悔しさを感じたものですから、この作品で少女が少年役を演じなければならなかった理由、必然性、を考えなければならない。いや別にいいんですけど、面白いテーマかなって。以下諸々のネタバレを含みます。

原作の『トーマの心臓』についてはおそらくご存じの方も多いでしょうし、聖典すぎてとうてい一言では語り尽くせないんですけれど、今日の日本のBL文化の源流を成す一つの金字塔である、ということはまず、言えると思います。あらすじとしては、学園のアイドルだった美少年トーマ・ヴェルナーが自殺、その想い人だったの優等生ユーリはある事件で心身に傷を負っており、トーマそっくりの転入生エーリクとの交流によって過去の呪縛を克服する、こういうお話。

「トーマ」が死んで、その想い人だった「ユーリ」が苦しんで、「トーマ」に酷似した「エーリク」がやってきて、「ユーリ」は惑わされて、結局死んだ「トーマ」に捕まって、「ユーリ」をずっと見詰めてきた「オスカー」は取り残される。こういった大まかな筋は踏襲されているんですが、読(?)後感が圧倒的に異なるのは、「トーマ」が「ユーリ」をどこへ連れて行ったのか、ということの差異ゆえでしょう。 原作の方は、キリスト教の概念が鍵で、トーマのユーリに対する贖罪とアガペーに気付いたことでユーリは一度裏切った神ともう一度向き合うことができ、自らの選んだ未来に向かっていく。一方映画の方、こちらはというと、「ユーリ」が「トーマ」に誘われて行ったのは何の捻りもなく言って水底。つまり停滞的な死の世界、であるわけです。ここに両作品の大きな違いがある。要するに前者は生を、後者は死を結論としている。これによって映画は原作の実写化にとどまらず、オマージュを踏まえた全く別の作品となり得ている。

映画に関してですけれども、予算が極限に抑えられているな~というのは明らかに見て取れましたし、正直演技も「うむ……」という感じ。棒読みが目立つ。予算はまあ置いといて、しかしそれでも良いんじゃないかな、と思うのは、松田龍平について語らせていただいた際にも、棒なんだけど、それが却って人智を越えた感じでイイ、みたいなことを申し上げましたが、つまりそういうことなんですね。何かっていうと、ここから本題なんですが、また前の記事、鳩山郁子さんの漫画とともに架空的な少年について考察した記事で言及しましたように、創作物における少年というのは「哲学や詩や世界を語らせるための」「装置として働いているに過ぎない」ということがしばしばあるわけです。つまり、いわゆる児童期から思春期を経て青年期へ発展しつつある男性を意味する現実の「少年」のリアリティというのが、ここで描かれているのではない。ので、自然な演技というのは特に必要でなく、詩的装置としての威厳や美しさやファンタジー的説得力の方が、重要である。ということが申し上げたいのです。 ところで元来私ってこういうポジティブなこじつけ癖があって、批評としては宜しくないのかな、など思いますが。まあどうでもいいです。

ここで、なぜ少女か? という問題なんですが、そもそもこの作品は原作が少女漫画であり、リアルの「14歳の少年」が持つ下品さとか思慮の浅さとか猪突猛進さよりも寧ろ一般に少年よりもませていて感傷的な少女の叙情性の方が登場人物たちには投影されていて、それが必然的であるのは、やはりこの時代の少女漫画が転換期であったこと、実験段階であったこと、つまり「少女」の心の機微を描いた所謂少女漫画の世界に「少年」を主人公にした物語という新風がようやく吹き込んできた時代である、ということに由来すると思うのです。トーマも然り風木も然り、日出処もそうですが、少女漫画誌なのに男の子しか出てこないなんて……と編集から反対があったという話はよく聞きます。漫画界でもジャンルの飽和した現在と違ってこういう画一的な時代であったから、同年代の『ドカベン』などとは対照的な「少女」漫画の世界に、ファンタジーとしての少年という存在は萌芽したのではないでしょうか。そしてBLの誕生が、これと同時に起こっているというのは偶然ではないだろうと思います。BLの発生原理についてもいろいろな議論が成されていて、正直なところ「きれいな男ときれいな男がエロいことしてたらめっちゃエロいわ」という「美味いもの+美味いもの=更に美味いもの」という発想こそBLの源泉なんだろうなというのが個人的にはしっくりきますが、それでもやはりトーマやら竹宮恵子風と木の詩』などを見るに、そういった読者のほとんどである少女の叙情性を投影したファンタジーとしての少年の誕生とともに、ファンタジーとしてのBLが発生したんではないかと、感じるのです。

だから『トーマ…』の少年たちも、「1999年の…」の少年たちも、厳密に言ってリアルな少年ではなく、少女の夢想の中に立ち現れた芸術装置である。ゆえに、実写の際の演者として、少年よりも少女の方がその精神性に近かった、ということだと思います。

まあぶっちゃけビジュアル的問題はでかいと思いますね。14、15で華奢な体つきの、美少年を四人揃えるのは難易度が高いと思います。というオチです。 とにかく役者さんも映像もモチーフも台詞も耽美的で美しいので是非ご覧になってください。