少年愛之美学

守備範囲がやや広めの腐女子による鑑賞と思索。

「ユーリ!!! on ICE」、とアイデンティティの闘争について〈YOI感想後編〉

アニメユーリオンアイスの感想後編になります。今回はどちらかというとキャラクターの人間性に踏み込んだ妄想じみた考察を、ことさら筋道を立てずに書き連ねていきます。前編はこちら↓

 

ehirocyanos.hatenablog.com

 

前回、フィギュアスケートの美を競う競技としての性質についてお話させていただきましたけれどもやっぱり「美を競う」、そして「個人競技である」ことによる厳しさから、自己顕示というのも彼らが闘っている重要な原動力の一つなのだろうということを、作品を見返していて個人的によく再確認します。彼らのスケートはピチット君や南君のように「観客を楽しませたい!」という信念や勇利のように「もっとヴィクトルと滑りたい!」という前言語的喜びやユリオのように一家の生活が掛かっているというハングリー精神など様々な動機にも当然支えられていると思うのですが、それと同時に、何というか、自分が自分を示せるのはスケートだけ、というようにアイデンティティのためにしがみついている感じ。自分を成り立たせるために何かにしがみつくという感覚は多くの現代人に共通すると思いますがこのアニメのキャラクターたちにとってそのアイデンティティのよりしろがスケートだったという、おれの方が彼よりももっとうまくやれる、おれの方がもっと美しく踊れる、そんな必死さがある。ように私には感じられるのです。

皆基本的に良い奴らでお互いのことを心から尊敬してるしオフアイスでは一緒に過ごすと心から楽しい良い友達だと思うんですが、各々トップアスリートには或意味当たり前のプライドを持っているし、お互い刺激を受けてるし、自分が表彰台に上がるためにはお互いが(正々堂々、自らの競技スキルによって)蹴落とさなくてはならない相手だと言うことも十分解っている。その上で「負けた! クッソ覚えてろ~」とか敵対心剥き出しとかそういうシンプルな関係ではない(ユーリ・プリセツキーとかいう例外くさいのも居る)。この辺りにリアルさを感じるのです。もっと複雑でいやらしい感じがするんですよね。特にこの作品は高校生の部活ではなくプロの世界ですし成人率が他のスポーツものに比べ高いですから剥き出しにせず押し殺しているものも多いと思う。

そのユーリ・プリセツキーが例外くさいのも、彼が分類で言うと「天才型」であるからでしょうか。どちらかというと「死ぬ気でやらなければ勝てない」選手の方に、よりその必死さが見える気が致します。

例えばクリストフ・ジャコメッティー、彼の性格には女性的な性質が多分にあるように私には感じられます。何をもって女性的といえるのかは曖昧なところですが何となしにネチネチしているところでしょうか。公式ファンブックでも「天才型ではない」ということが明示されていましたが、放っておいても結果が付いてくるヴィクトルに対し必死扱いて表彰台に上がれたり上がれなかったりのクリスは人一倍張り詰めた思いで試合に向かっているように見えるのです。それでああいうお色気路線のお茶目キャラですからあれで根は真面目なんだな~と思うと胸熱。

同様にピチット・チュラノン、自撮りおばけの時点で既に女子高生なんですけども、彼もクリスに似たところがあると思います。SNS中毒というので既にちょっとした自己顕示欲の塊みたいなところがありますが彼も他の選手に比べスキルが低い(飛べるジャンプが少ない)分自己主張をし続けることができる精神力がエンジンとなっているように見える。

競技の性質上、自分が勝敗を左右できる時間を対戦相手と共有できないというもどかしさがそういう良い意味のいやらしさを自然と培ってしまうのかな、とも。フィギュアスケートの大会に選手として出た経験はないので無論想像の域を脱しませんが、特に先攻(?)は自分の競技が終わった後は、時には取り返しのつかない自らのミスを悔やみながら、心のどこかで他選手のミスを願うしか手はない。アニメの中では自分の演技終了後も「ダバーイ!」と次の滑走者にエールを送っていますけれども、その言葉に嘘がないのは確かなんですよ、それは純粋なエールなんです、複雑なんですが、でもやっぱり、この人がうまくやってしまったら自分は表彰台に上がれない、そんな気持ちがあると思う。チームスポーツだとまた様相は変わってくる。足を引っ張ってはならないとかレギュラー選抜とか違うプレッシャーがありますが、基本的に個人競技の圧倒的孤独とは性質が違うでしょう。基本的にたった一人で、近しい人の期待や地元・自国の期待やコーチの評価(特にコーチの知名度の高い今シーズンの勇利はこの傾向が強い)を、背負っているわけですから。

それからオタベック・アルティン、彼が数年来の憧れの人であるユーリ・プリセツキーに対して抱く感情は結構複雑なものなんじゃないでしょうか。ファンブックにも少し言及がありそれは確信に変わったのですが、やはり彼は単純に憧れているだけではない。単純に、憧れの人と友達になりたくて、ユリオに声を掛けたわけではない。そこには紛れもなく天才に対する凡才の嫉妬、確執(この辺りについてはモブサイコについての記事でも少し言及)があるんです。ノービスで初めてユーリを見たオタベック少年は天才と自分との間に横たわる越えられない壁を目の当たりにして、自分を否定されたような衝撃はきっとその後もずっと尾を引いていて、自分の資質では彼にはなれないことが解ったからこそ意識的にその対極の道を見付けたわけですよね。ここなんですよ、わざわざユーリとは真逆を自分の勝利の可能性として突き進むという、ここにオタベックのユリオに対する感情のあり方が窺える。
例えば逆に勝生勇利はというと、ヴィクトルに対しライバル心のようなものはまだこの時点ではあまりないように思われます。勇利にとって彼は本当に神様なんでしょうね。ずっとヴィクトルの背中を追ってきて、ヴィクトルのようになりたいと無邪気に思っていて、ヴィクトルがコーチになった後も勇利は彼を自分の演技の中にヴィクトルを表れさせようし、それを見る人に示そうとする。GPFでは「ヴィクトル・ニキフォロフの代名詞」とも言われる四回転フリップ、即ち「ヴィクトルと同じ難易度」に挑戦する。ヴィクトルを越えることよりもヴィクトルと一体化し、ヴィクトルとなって踊ることが勇利の今シーズンの目標であったということが言えると思います。だからつまりエロスなんですよね。前編でも少し言及いたしましたが確かに古代ギリシャ哲学でいうところのアンドロギニュス、半身、こういったワードを連想させる、「同一化」を完成とする関係だなと。
というわけでオタベックがレディーにベタ惚れな少女漫画的オタユリもすごくすごく美味しいのですが、やっぱりこのちょっとドロドロした関係は私としては看過できないのです。

まあ勇利がヴィクトルの超克を望んではいないというのも現時点では、ですね。今後選手として対等に鎬を削るであろう彼らの関係に何か変化が起きないとも限らない。勇利はこれからもメキメキと自分のスケートを極めていくのでしょうし年齢から考えても勇利がヴィクトルをいつか凌駕するという可能性は多く残されています。ただ何を持って「越えた」とするかですが。得点云々を言ってもフィギュアスケートは「表現」ですから、ヴィクトルが幼い勇利を魅了したという事実は永久不変ですし、選手ごとに違う魅了の仕方がある。それをよく理解した上で彼らはその競技人生の終わりまで闘っていくのだと思います。

まあこのように、孤独に自らの技術と美を競い合う選手たちの間に流れる、ピリピリと和気藹々しているムードが、好きなんですよね。グッとくる。

話は変わってヴィクトル・ニキフォロフの性質について少し。
この男、「実はめちゃくちゃ努力してる」でも良いんですけども、努力を知らない天才型だと、私は思う。山岸凉子先生の『アラベスク』というバレエ漫画を少し引き合いに出させていただきますが、努力型主人公ノンナちゃんのライバルでラーラちゃんという子が居て、天才型の彼女は世間からちやほやされていたのですがある演目の主役を競い合ってノンナに事実上の敗北を喫したのちサッサとバレエを捨て女優に転向してしまう。「努力をせずに名声を手に入れてきた者は簡単にそれを捨てる」という姿が描かれているのですが、ちょっとヴィクトルと重ねることができるかなと思いました。27歳という、スポーツ選手として危うい年齢で1シーズンまるごと、言ってみれば棒に振ることが、できる男なのです、ヴィクトル・ニキフォロフは。公式ファンブックにも「優秀な選手は必ずしも優秀なコーチではない、ということを描きたかった」という旨が書かれておりましたが、確かにニキフォロフは「努力してもできない人」のことが理解できていないところが特に物語の序盤には窺えるような気がしますね。その「認識の限界」を乗り越えてコーチとして成長していくニキフォロフの物語もこのユーリオンアイス。

けれどもやっぱりヴィクトルも先程天才型に分類してしまったユリオも、どこかで足を傷だらけにして頑張っているんだよな。

ところでどうでもいいんですがこの『アラベスク』ってちょっと「ユーリ!!!」みがあるんですよね。自分の才能のなさを悲観してバレエやめよっかな~と思っていた主人公のもとにソヴィエトの「金の星」イケメンバレリーノ、ユーリ・ミロノフがコーチを買って出る。ヴィクトルに年相応以上の分別と落ち着きを足した感じのハンサムで、髪型もちょっと似てる。主人公のノンナちゃんが段々表現者として女性として成熟していく過程とかも勇利と重なるなあと個人的に感じます。

 

公式ファンブックを拝見したことは何度か触れましたが、そちらを読んでみると自分が思ったこととは少し違ったなとかやっぱりこうだったんだなとか色々な発見があって楽しかったです。原作者の久保ミツロウさんも創作物について真相は受け手の解釈に依っていると思っていた……(けれど視聴者がどこかに真相があると信じるほど作品世界は確立しているのだなあという気付き)と仰っていましたが私の妄想も一つの真相として作品に受容されるのかなあと。それにしてもつくづくそういったメタ的な部分まで狙い込んで作り込まれた作品なのだと思いました。

 2回で終わらせるつもりだったのですが力尽きました。愛が溢れて予想以上に書きたいことが出てきてしまった。ユーリ・プリセツキーについて等まだ語らせていただきたいことが少々ありますので近いうちにまたYOI関連の記事を更新するかもしれません。