少年愛之美学

守備範囲がやや広めの腐女子による鑑賞と思索。

太宰治「駈込み訴え」、とイエス×ユダの愛憎入り乱れる信仰系ホモについて

太宰治の短編小説「駈込み訴え」についての記事です。
太宰の小説は饒舌体などと言われますけれどもこの小説はある人物による語りの形式をとった小説で主人公については最後に種明かしとなるんですが、解る人には序盤で解りますし解らない人には聞いても解らないと思うのでいきなりネタバレします。主人公はあのイスカリオテのユダです。ユダとは、キリスト教聖典である『新約聖書』の記述によれば当時危険思想家としてローマ政府から目を付けれられていたイエス・キリストの居場所を密告し、彼が逮捕され十字架刑に処される、所謂キリストの受難のきっかけを作った人であり、ユダはイエスとその弟子たちの一行の一員で金銭管理を担当していたのですが最終的に自分がローマ政府にイエスを売ったことを過ちと気づき報酬の銀貨を投げ捨てて首吊り自殺をしたと言われていて、現在でも裏切り者の代名詞とされる人物です。この小説は、このユダが、今まさにイエスのことを恐らく役人に、訴えている場面を描いているんですが、その内容がもうただのノロケなんですよね。
というわけで今回の「神様系ホモ」は相手がガチの神です。正確にはイエスはメシア即ち救世主なんですけれども、三位一体というものがありまして、こちらについては今回は詳しく触れませんが、まあ神です。

本文を読むとお解りになると思いますが作中で吐露されているユダの激情を一言で表すと「イエスに対する入り乱れた愛憎」。嗚呼あの人が憎い、傲慢で自惚れ屋でロクデナシだ、と散々ディスっているかと思いきや、嗚呼私はあの人が居ないと生きてゆけない、美しいあの人を愛しているのです、と惚気始めたと思いきや、あの人が憎い、私を虐め抜いてプライドを傷付けて~! とディスる、の繰り返し。愛憎は表裏一体と言いますがそれがひしひしと伝わってきます。で結局どっちなんだよ、となるんですが実際どっちもなんだと思います。詳しくは後程。

エス×ユダの話についてはこの「駆込み訴え」以外にも古今東西たくさんの二次創作があって、もはや「公式だったか二次創作だったか思い出せない腐女子の顔」なんですけれども、「ユダはイエスを憎しむと同時に愛していた、愛すと同時に憎んでいた」というのは王道解釈の一つのように個人的には感じられます。
しかし私も公式には誠実でありたいので、ちゃんと原作(聖書)に立ち返りましょう。そもそも新約聖書というのはクリスチャン以外には敬遠されがちな書物なのかなと思うのですが、その原因としてまず第一に興味がないというのは大きいと思いますけども、無関心ではなく反発の一因としてはイエスの(過剰な)神格化の描写という要素があると思うのです。これはキリスト教自体への反発・疑念と共通するんでしょうけれども、現代の大科学時代に聖書物語の中の奇跡やら神やら復活やらといったことがなかなか受け入れがたいのは仕方がない。それらの現代的解釈についてはまた別の話ですから次の機会に遅らせていただきたいのですが少なくとも救世主とされるイエスについての超人的な描写によって「こんなんをガチで信じてるやつが居るなんてありえん」と聖書ごと或いはキリスト教ごと一蹴してしまう人も、特に日本には、多い気がします。そもそも神や宗教の存在に批判的な人は多い。
新約聖書』においてイエスがどういった扱いを受けているかといいますと、やっぱり盲人を治癒したり死者を生き返らせたり様々な奇跡を起こしてフォロワーを増やしていく超能力者で、人間の罪を贖ってくれる尊いお方……のような感じで、こんな人が実在したのだと言われれてしまうと胡散臭さが拭えません。

けれどもこれらははっきり言ってどうでもいい。例えば「一個のパンと二匹の魚で何千人もの人が満腹に」という奇跡譚に対し「一人が分け与えたことで他の人々も自分のためだけにとっておいた食料を隣人とシェアし始めたから」という解釈を付けるように、エピソードに逐一科学的解釈を付けることはそれはそれで意味がありますけれども、生き方や気持ちの持ち方の指針として聖書を読む・キリスト教の思想を理解しようとする際には寓話の中の、主旨をこそ理解しようとするべきじゃないでしょうか。その一つの方法として、「人としてのイエス」という側面にもう少し目を向けても良いのではとeikouは思っています。実際イエスは受難を恐れ「助けてくれ~」と懇願したり、自らの死に対して、まあ俺はメシアだからな、と泰然と構えているわけでは決してなく、怯えている様子が見て取れますし、神殿で商売やっている人にキレてチャブ台返しをするような人だから、まああれはパフォーマンスなんだか解りませんけど、もともと意外と気持の乱高下がある人だと思う。
聖人ではないイエス像としてeikouの見立てはこうです。恐ろしく頭が良い(事実幼少期には神童と呼ばれていたらしい)けれど、性格に少々難あり、言ってることがコロコロ変わったり人当たりがキツかったりする、でもそれらをカバーしてしまうカリスマ性があり人望がある人物。そういったイエスという人に、ユダは振り回されているのですが、思想家としてのイエスはやはり無双の天才である。ユダも少年期には地元で秀才と呼ばれブイブイ言わせてたりしたのかもしれません。いや、知りませんけど。でも自分の敵わない圧倒的才能・魅力に対し、憧れと尊敬と同時に、憎しみと劣等感を抱いてもおかしくはない。だから「駈込み訴え」にあるような複雑な感情が生まれてしまう。やっぱり私って「攻めに嫉妬して消えてほしいくらい憎んでるけど結局攻めが大好きな受け」が好きなんだなあとつくづく。
こういったイエスの人間味や生々しさみたいなものを、「駆込み訴え」はよく描いていて、そういった意味では聖書の解釈書の一つとして成功していると言えるわけです。

それ以前にイエス×ユダに関しては公式で最大の爆弾が落とされていて、それが「ユダの接吻」なんですよね。ルネサンスの画家ジョットの作品にこのときの様子を描いた絵画がありますが、ユダが「私が接吻する人がイエスだから、それを目印に捕まえてください」と政府に事前に言っておいて、イエスを引き渡す際に合図としてユダがイエスにキスするのです。俗に言う裏切りの接吻です。胸熱ですね。wiki情報によりますとイタリアマフィアでは組から抜ける際にこれを模した儀式をするとか。ほんとかな。キリスト教の男性同性愛否定についてもどこに対してというわけでもなく色々申し上げたいことございますけれども、それはまあ別の時にして、記述の上では男色を思いっきり否定する聖書ですが実は禁じているのは「鶏姦」即ちアナルセックスを筆頭にした男性同士の性的接触のことであり男性同士の恋愛に関しては特に何も言っていないのでは? とeikouは思っていて、そもそも男性同士のセックスを禁じているところ自体に文句はたらたらありますし(何の立場から言ってるんだ)恋愛と性的接触の相互的関連や恋愛と深い愛情の違いの有無など、問題は山積みですが、ともかく聖書には旧約のダビデヨナタンのブロマンスやイエスと(自称)その最も愛した弟子ヨハネの激しいボディータッチなど、男性間に交わされる深い愛情の描写、っつーか美味しい場面が、意外と散見されるのも事実です。ユダの接吻もその代表例ですが「駈込み訴え」では、最後の晩餐でイエスが「この中に裏切り者が居る。私がパンを渡す人がその人だ」と言ってユダにパンを渡す場面、ここが「ユダの口の中にイエスがパンを押し入れる」ことになっているのです。激エモ。太宰は女たらしのイメージがありますがこのあたり、でかした! という感じです。

太宰については「走れメロス」におけるブロマンスも気になりますね。なお宗教的冒涜の意志はありませんので「地雷です!!」は受け付けませんが解釈違いの主張は受け付けたいと思います。