読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

少年愛之美学

平和主義の腐○子による鑑賞と思索。思い付いたまま書き散らしている。

宗教萌え、神と真理への圧倒的受動性について

はじめに説明させていただきますと今日は、平たく言って「宗教はホモ」「神と人間の関係は萌え」という話を致します。先にお断りしておきますが諸々の宗教を冒涜する意志はございません。

宗教というものは多分にA感覚的性質を持つ現象であると思うのですが、「桜の樹の下には」のところで言及をお約束した仏教のそれのように個々の宗教が各々保有するポイントは今回はさておき、全体的に宗教という現象についてそのゆえんを突き詰めると信仰という行為のあり方に辿り着く気が致します。

信仰とは何であるか? というのは歴史の古い問ですが少なくとも何かをひたすら、時に無根拠に、信じることというのが基本的解釈でしょうけども、その信仰対象がヤハウェアッラー天照大神やアフラ=マズダやゼウス等々、様々な形で具現化される「神」という存在であるわけで、神とは何か? という問もまた、古今東西ポピュラーな疑問です。
人間は何を神と名付けなければならなかったのか? が問題であると思うのです。なぜ宗教は生まれたか、なぜ生まれなくてはならなかったのかという問と密接不可分なものですが、ここは本題でないので軽く行きますが突き詰めるとやはりそれは、即ち神は、宇宙の原理そのものであると考えられます。原始宗教の祭祀行為などは神に哀願することで豊作を願ったり天災を免れようとしたものらしい、またユダヤ教がバビロン捕囚をはじめとする民族の受難とそれからの解放への願いから生じたというのは定説ですが、あらゆる宗教は幸福を求めて、この世界を統べる原理に働きかけようとする行為なんですよね。神に願うこと=宇宙原理に働きかけること、でありますから、例えば古代インドのウパニシャッド哲学はそれをストレートにブラフマンという概念で示唆しましたけれど、神とは宇宙原理であるわけです。

余談ですが、このことは神は居るのか居ないのかという議論を無意味にします。神を「救ってくれるもの」だと思うから神の存在を疑うというような、この観点からすると全く見当違いなことが起こるわけです。神はあくまで「然るべき状態に導いてくれるもの」、与えられたものが我々が意識のほんの浅いところで求める慰安や快楽と異なることは十分あり得ます。

ということは、ここから本題です、神を信じ神に身を任せる信仰という行為は、世界=宇宙=神=真理への受動と言い換えることができます。
ベルニーニ作「聖テレサの法悦」という彫刻がありますがこれはエクスタシーつまり神との合一がもたらす神秘的境地を表現したもので、どうやら霊的体験の快感が極まって神と一体化した際に人はめっちゃ気持ち良い状態になるらしく、「法悦」はこのエクスタシーなのでありますけれども、至高のもの・完全なるものとの接触或いは完全なリンクを果たした際の恍惚については先述の「桜の~」の中にもすばらしい音楽を聴いたときに現れる幻惑などといった形で言及されていましたが、その根源的快楽こそまさにA感覚と言えるのではないでしょうか。Aが消化管を遡って宇宙へ至る入口であることは先日申し上げましたが、真理との交接という意味においてこの神人霊交によるエクスタシーはA感覚そのものであると言えます。この絶頂、完全無欠の幸福・平安・秩序を究極的には求めて人は信仰し祈る。祈りとは神とのsexです。暴論。

と仮定すると、聖テレサは女性ですが女性のエクスタシーはオーガズムに例えれば解りやすいのですけれども男性がエクスタシーに陥るとはどういうことのでしょう、射精でしょうか? そうなると精液の放出に象徴される何かが伴うわけですが神との交わりにおいて人間が「与える」べきものは皆無、即ち神に対し一方的かつ圧倒的「受動」なのです。従ってこの場合、宗教的境地において男性の感じるエクスタシーはA感覚の高まり即ちドライオーガズムなのであり、また神の愛に性差はないという意味から見ても女性の感じるそれも実は、Aによるものなのです。
いいですか、神に対して男性は圧倒的「受け」なのです。

この辺りが修道院という場所に香る(あくまで文学的意味においての)潜在的エロスですけれども、要するに信仰とは真理とのsexであり、その究極がAを通じたエクスタシーであり、「宗教はめっちゃホモ」であるわけです。
え? わからない? そうですか……


いずれA感覚と世界平和についても書かせていただきたいと思うのですが宗教とは幸福の追求であり世界への受動性を喚起するものですから、実質この一連の主張はその説明の一つではあります。