少年愛之美学

守備範囲がやや広めの腐女子による鑑賞と思索。

「1999年の夏休み」、と少女が少年役を担わなければならなかった理由について

f:id:ehirocyanos:20170829105239j:plain

半ズボンを履き、「僕」と自称し、詩的な台詞を繰り出すのは、少年を装った少女たちである。

1999年の夏休み」、萩尾望都の漫画『トーマの心臓』のストーリーを下敷きに、舞台をドイツギムナジウムから日本の寄宿学校に移し、ホラーファンタジーの味を加えた、邦画であります。登場人物の四人の少年を演じるのは全員少女。個人的なお話をすると、リボンの騎士とかベルばらとかイケパラとか、「男と思いきや実は女でした!」っていう展開が少々地雷気味というか、男同士の関係に固執する過激派腐女子にとっては敵みたいなところがありまして、それとは多少違うのかもしれませんけれどもこの「1999年の夏休み」も、何で少年役に少年を持ってこなかったんだ、という妙な悔しさを感じたものですから、この作品で少女が少年役を演じなければならなかった理由、必然性、を考えなければならない。いや別にいいんですけど、面白いテーマかなって。以下諸々のネタバレを含みます。

原作の『トーマの心臓』についてはおそらくご存じの方も多いでしょうし、聖典すぎてとうてい一言では語り尽くせないんですけれど、今日の日本のBL文化の源流を成す一つの金字塔である、ということはまず、言えると思います。あらすじとしては、学園のアイドルだった美少年トーマ・ヴェルナーが自殺、その想い人だったの優等生ユーリはある事件で心身に傷を負っており、トーマそっくりの転入生エーリクとの交流によって過去の呪縛を克服する、こういうお話。

「トーマ」が死んで、その想い人だった「ユーリ」が苦しんで、「トーマ」に酷似した「エーリク」がやってきて、「ユーリ」は惑わされて、結局死んだ「トーマ」に捕まって、「ユーリ」をずっと見詰めてきた「オスカー」は取り残される。こういった大まかな筋は踏襲されているんですが、読(?)後感が圧倒的に異なるのは、「トーマ」が「ユーリ」をどこへ連れて行ったのか、ということの差異ゆえでしょう。 原作の方は、キリスト教の概念が鍵で、トーマのユーリに対する贖罪とアガペーに気付いたことでユーリは一度裏切った神ともう一度向き合うことができ、自らの選んだ未来に向かっていく。一方映画の方、こちらはというと、「ユーリ」が「トーマ」に誘われて行ったのは何の捻りもなく言って水底。つまり停滞的な死の世界、であるわけです。ここに両作品の大きな違いがある。要するに前者は生を、後者は死を結論としている。これによって映画は原作の実写化にとどまらず、オマージュを踏まえた全く別の作品となり得ている。

映画に関してですけれども、予算が極限に抑えられているな~というのは明らかに見て取れましたし、正直演技も「うむ……」という感じ。棒読みが目立つ。予算はまあ置いといて、しかしそれでも良いんじゃないかな、と思うのは、松田龍平について語らせていただいた際にも、棒なんだけど、それが却って人智を越えた感じでイイ、みたいなことを申し上げましたが、つまりそういうことなんですね。何かっていうと、ここから本題なんですが、また前の記事、鳩山郁子さんの漫画とともに架空的な少年について考察した記事で言及しましたように、創作物における少年というのは「哲学や詩や世界を語らせるための」「装置として働いているに過ぎない」ということがしばしばあるわけです。つまり、いわゆる児童期から思春期を経て青年期へ発展しつつある男性を意味する現実の「少年」のリアリティというのが、ここで描かれているのではない。ので、自然な演技というのは特に必要でなく、詩的装置としての威厳や美しさやファンタジー的説得力の方が、重要である。ということが申し上げたいのです。 ところで元来私ってこういうポジティブなこじつけ癖があって、批評としては宜しくないのかな、など思いますが。まあどうでもいいです。

ここで、なぜ少女か? という問題なんですが、そもそもこの作品は原作が少女漫画であり、リアルの「14歳の少年」が持つ下品さとか思慮の浅さとか猪突猛進さよりも寧ろ一般に少年よりもませていて感傷的な少女の叙情性の方が登場人物たちには投影されていて、それが必然的であるのは、やはりこの時代の少女漫画が転換期であったこと、実験段階であったこと、つまり「少女」の心の機微を描いた所謂少女漫画の世界に「少年」を主人公にした物語という新風がようやく吹き込んできた時代である、ということに由来すると思うのです。トーマも然り風木も然り、日出処もそうですが、少女漫画誌なのに男の子しか出てこないなんて……と編集から反対があったという話はよく聞きます。漫画界でもジャンルの飽和した現在と違ってこういう画一的な時代であったから、同年代の『ドカベン』などとは対照的な「少女」漫画の世界に、ファンタジーとしての少年という存在は萌芽したのではないでしょうか。そしてBLの誕生が、これと同時に起こっているというのは偶然ではないだろうと思います。BLの発生原理についてもいろいろな議論が成されていて、正直なところ「きれいな男ときれいな男がエロいことしてたらめっちゃエロいわ」という「美味いもの+美味いもの=更に美味いもの」という発想こそBLの源泉なんだろうなというのが個人的にはしっくりきますが、それでもやはりトーマやら竹宮恵子風と木の詩』などを見るに、そういった読者のほとんどである少女の叙情性を投影したファンタジーとしての少年の誕生とともに、ファンタジーとしてのBLが発生したんではないかと、感じるのです。

だから『トーマ…』の少年たちも、「1999年の…」の少年たちも、厳密に言ってリアルな少年ではなく、少女の夢想の中に立ち現れた芸術装置である。ゆえに、実写の際の演者として、少年よりも少女の方がその精神性に近かった、ということだと思います。

まあぶっちゃけビジュアル的問題はでかいと思いますね。14、15で華奢な体つきの、美少年を四人揃えるのは難易度が高いと思います。というオチです。 とにかく役者さんも映像もモチーフも台詞も耽美的で美しいので是非ご覧になってください。

武田肇『少年聖歌隊』、と共に児童ポルノを考えてみた

詩人らしい。この方の名を見付けた当時は行動範囲の図書館を渡り歩いて何とか『少年聖歌隊』にアクセスするも、入手には至らず、他の著書もほとんどお目にかかれていません。ことごとく絶版で中古も高い。ようやく18を過ぎたので落ち着いたときに国会図書館で求めてみたいものですけれども、作家本人に関してもあまり情報が無いのですが私の探し方が甘いんでしょうか。とりあえず半ズボン少年をこよなく愛する詩人さんのようです。

『少年聖歌隊』は音楽之友社から出版された小説で、半ズボンの日本人美少年写真(白黒)が数枚収録されており、あとは少年愛をモチーフとした幻想的で耽美的な小説が占めます。詩人というだけあって、文体は独特で粘度が高く装飾語句の練り方がやっぱり、プロット重視小説とは趣を異にするといった印象です。私はとても好きでした。写真のモデルの少年は本当に整った顔立ちで、ピアノの前に佇んだり絨毯に脚を投げ出したり、あどけない身体に滲み出る妖艶さ、現代ではなかなか撮れない代物と思います。
武田肇さんはこれまた少年愛小説+写真の『半ズボンの神話』がまあ代表作のようですけれども、半ズボンと言えば、昭和の小学生男子は皆半ズボンだったんですよね、『ドラえもん』や『サザエさん』などから窺っても。半ズボンといっても股関節下10センチくらいの、今にしては超ショートパンツ。ほとんどブルマみたいなものも見ますが。たまに写真とかで見掛けますけど、良い時代だったなと思います。そのくらいの歳の男の子の脚っていうのは、まあ当然体系によりけりですけれど、概して輪郭の緩急が少なくしなやかで美しいから、良いものは積極的に出していってほしいと思いますが、やっぱり今の流行りではないようで。

そんな半ズボンは当時から少年愛好家のアイコンみたいなものだったみたいです。今は残念ながらノスタルジックな意味合いが強いですけれども、昭和に隆盛したらしい「少年愛写真集」「少年愛ビデオ」なるものは現在はなかなか見られないように思われます。児童ポルノ法の影響で衰退したんですよね、おそらく。同時に、自分が性別の概念を越えて美しいものとして消費されうるという、A感覚的意識を持った少年の存在も、廃れていったのかなと、個人的には想像されます。

その児童ポルノ(以下児ポ)についてなんですけれども、まず公共の場において女子は胸と性器、男子は性器を、それぞれ最低限隠すべきという慣習は前提としてありますし、実物エロがいけないのも理解できます。ここで言うエロっていうのは上記の本来隠すべき場所の露出だったり猥褻行為だったり性的な意図を持って公共に発信された作品のことですけれども、確かにまだ判断力に欠ける児童にこれを強要するのは人権問題ですね。若気の至りって言葉さえ恐ろしいのに。ところでオムツのCMあるじゃないですか、あれには絶対に出たくないと思います。物心付かないうちに自分の尻を不特定多数の人に見られているとか耐えられない。友達にバレたらイジられそう。ピューリッツァー賞を撮ったニック・ウットの写真「ナパーム弾の少女」児ポっていうなら、あれは児ポでないんでしょうか、解らないけど。

しかし、エロでない実写を、個人でエロと解釈し楽しむのは、問題ない、というかそれを咎めてもきりがない。と思います。例えば水着やそれこそ半ズボンなど、その格好で公共の場に姿を現しても社会的に問題のない出で立ちをした児童を撮影したものを見て「エロいな~」と見てしまうのは、どうしようもない。私は学ランを見て「エロいな~」って思います。椅子や靴を見て「エロいな~」って思う人も居ます。まあ露出度とか対象が人格を持っているかも基準にはなりますけど。

それから、準児童ポルノというのが論争になりましたけれども、要するに非実在の児童をめぐる猥褻行為を扱った創作物ですよね、あれを禁止して良いか否かということですけれども、私の考えでは、あれは全然有り(ここでは、規制の必要は無いの意)かと思います。実在の特定の児童が損なわれなければ強姦死姦脳姦何でもやってください。

というのは、色んな研究で言われていることですが、「普通の」人間が創作物に触発されて、法に触れる、自己の社会的立場や他者の権利を傷付けることをわざわざするか、という。むしろ児ポを読んで実行に移してしまうような人間はそれを読まずともどこかで何かをやらかしたんだろうと。創作エロっていうのは普通、単純なる人畜無害なエンターテイメントなんですよ。殺人事件を扱った推理ものや華やかに書かれた戦争もののフィクションがそうであるように。

そもそも私も、エロがタブー視される決定的理由もいまいちまだ理解できていなくて、過激なBLコミックが年齢規制されず男女ものエロマンガが18禁、という事実から推測するに生物学的男女が現実で性交すると不本意でも妊娠することがありトラブルが起こるという、男女ものはそういう実害に直結するものであって、しかし思うに失敗してしまう人っていうのはエロを知ってしまっているからというのでなくむしろ中途半端にしか知らないからそうなるっていうのはあると思う。ある分野に深く触れるほど知識体系というのは完成していくものじゃないでしょうか。補足と言っては難ですが近頃はフィクションの世界だと男同士でも普通に妊娠します。

で、創作児ポに問題なしという話ですが、包丁の喩えはこういう時によく用いられますけれども、つまり道具ではなく用いる人間側に全ての責任があるという主張で、例えば包丁の「調理する」という用途に対応する児ポの用途は、創作物一般についてと同様「現実では経験し得ないことを模擬体験する」ことであり、包丁の「人を殺傷する」にあたる間違った用途が、児ポでは「創作物によって喚起された欲望をもとに現実に他者の人権を損なう」こと、であると。こんなことは腐るほど言われているしこれでいいんじゃないかと私自身は思っているんですが、二次元児ポに反対の方々の主張として、フィクション児ポ作品によって児童を性的に、時に残酷に虐待するというアイデアが提供されることで、現実の児童に被害が及ぶ可能性が出てきてしまう、というものがあるようです。児童をこのようにいたぶると楽しいのか、と本来それ自体を知らなかったであろう人に発想を与え欲望を喚起してしまうと。確かにそうか~と思う。しかし児ポが完全に規制されれば児童の性的被害は根絶されるか? というとそれは不可能ではないか。ポルノの歴史っていうか生物的、或いは社会的に人間に根付いたエロの想像力って、そんなに安いものじゃないのではと思うのです。それに、却ってフィクションを規制しない方がそれがスケープゴートとなって現実の犯罪が減少するという話もありますからね。

自分も子供を持ったら考えも変わるんでしょうか。今のところ青少年保護の観点から創作児ポの禁止を根拠付けようとしている意見の中で完璧に納得できたものが一つもないので、本当はもっと色んな意見を聴きたいのです。しかし少なくとも、「何か生理的に嫌悪感がある」という理由は、そう感じる人が居ること自体は理解できますけれども、それのみによって個人の範疇に留まりうる娯楽を奪う権利を、誰も保有していないことは、確かなんじゃないでしょうか。
私の提案は、非実在の感触を作り出せる量子テレポーテーション非実在の映像を作り出せるSONYのPlayStationVRとを組み合わせて、比較的安価なシミュレーションアダルトグッズを開発すること。犯罪率を減らせそうな気がする。しかし下手に作ると少子化に影響が出そうですから難しいものですね。

というように、なかなか武田の詩集が入手できないことに憤慨して八つ当たりをしております。

手塚治虫『MW』、と罪に勝るアガペー、それから少し人文学分野の意義について

手塚治虫の作品『MW』について記事です。手塚氏には珍しく同性愛もので軽くホモセクシャルの濡れ場もあり少年愛的場面もあり。『火の鳥』『ブラック・ジャック』『鉄腕アトム』『ブッダ』などの名作を生み出された漫画の神様の隠れた? 名作。

あらすじとしては、南方の某島で駐留外国軍の化学兵器「MW」と呼ばれる毒ガスが漏れて全島民が変死、地獄絵図を目の当たりにした二人の少年の波乱に富んだその後を描いたもので、一方の結城美知夫は毒ガスで心身を蝕まれ、美貌と頭脳を利用して復讐と称したサイコパシックな犯罪を繰り返し、一方の元チンピラ少年賀来巌は神父となり結城の救済に生涯を懸ける。

一言で言ってこの作品は、同一の事件に人生を狂わされた運命共同体の二人の男のメリバ譚です。
MWが島に蔓延する前夜、賀来は自身の所属するチンピラグループの人質となった梨園の子息美知夫の見張り番として、島の洞窟で彼と一晩を過ごしますが、美知夫が余りに美少年だったので思わずキスをしてしまう。成人後の二人の会話からは、その夜それ以上のことがあったことが窺えますが、まさにその夜にこそ二人の運命は悲惨な形で結ばれてしまったと言ってよく、美知夫がMWに侵された後二人で本土に帰って一方は神父に一方はエリート社会人となるわけですが、二人はホモセクシャルな肉体関係を持ち続け、殺人を犯しながら「MWを見付けだして世界中にばらまく」という計画を着々と達成に近付けてゆく結城を、賀来は複雑な葛藤の中で見守っている。
なぜ葛藤があるか、それは神父であり善良な市民であり人間である賀来が、愛してはいけない人間を愛してしまっているからで、まずキリスト教の神父であるという立場から悩ましいのが、男性である賀来が男性である結城と肉体関係を持っていること。衆知の通りユダヤ教キリスト教聖典である『聖書』は男色、具体的には男性同士の性的接触を罪としています。余談ですが神の使いである神父がゲイバーに出入り! というスクープをレズビアン記者が潰すという、反同性愛差別的な啓発の要素が見受けられますが、この辺り手塚氏は前衛的だなと思いましたね。また余談ですが、芸が細かいなと思ったのが、オスカー・ワイルドの小説『サロメ』におけるビアズリーの挿し絵がパロディーされていて、キリスト教のムードが際立っていたり、ワイルドから同性愛が連想されることが巧く利用されていたりしたところですね。大いに話が逸れてしまって申し訳ないんですけれども、ともあれこの件に関しては、つまり男色に対する宗教的罪悪感というのは、聖書のご愛敬的な部分と愛の絶対性と言う論でもって実は一応の解決をしている。そんなことよりも決定的にまずいのは、結城が殺人鬼であること、それを賀来は知っていて黙っている、のみならず結城を守るために荷担までしてしまっていることなのです。これは正当化の余地がないわけです。でも賀来は結城を警察に突き出すことができない、それは彼が結城を愛してしまっているためであり、最終的に自分の存在価値というか使命、宗教的なミッション、というのは実にその身体をもって、愛する結城を罪から救済することなのだ! とでも悟ったかのような、行動に出るのです。
哀れな罪人ユダと罪を贖うキリストという、否応にも『トーマの心臓』彷彿とさせる構図……いや、これ以上は言えない。
ラストは壮絶ですよ。ネタバレになりますから詳しくは申し上げられませんけれども本当に壮絶です。胸の奥がキュッとなる。

物語自体のテーマとしては、これは冒頭に挙げさせていただいた四作品とかそれだけでなくとも手塚氏の創作全体の大きなテーマともなっているものであると思いますけれども、やっぱり「人間や生物全体の自然な姿と科学技術との葛藤」というのがあると思います。文庫版の花村萬月さんだったかな? による解説で、手塚治虫さんの功績というのは、そういった人間が今切実に考えなければならないテーマを学術論文ではなくエンターテイメントに託してより多くの人向けてに発信したことだとありましたけれども、本編とは直接関係はないのですがなるほどこの辺りに漫画や文学や絵や音楽や演劇といった、「人文科学」分野の価値があるんじゃないかと私は思ったんですよね。昨今、大学の人文系を縮小するのどうのと騒がれていますけれども、GDPが上がって国が良くなるんだったら世の中苦労はないですよ(怒)。生産にだけ勤しんで意識変革というのをしなけれはあらゆる問題の解決の糸口は無い、そしてその大衆の意識変革の手段を探るというのが漫画を含めた人文系分野の意味なんじゃないかと。理想論ですかね。

ところでこの『MW』は実写映画化も済んでいて、結城が玉木宏さんで賀来が山田孝之さんという配役だったのですが、これは声を大にして言いたい、マジでハマり役! 代わりに文字を大にして言いました。まあ山田さんが少々綺麗すぎたかなっていうのは、もう少し賀来はイモ系で良かったかなとは思いますが、それでも充分でしたし、特に玉木さんの顔の骨格はマジで結城、というか結城の頬の痩け方が既視感あるなと思っていたら実写が玉木宏さんだったんで「これだ!」と感激したという。スポンサーによるNGとかで直接的に同性愛関係が表されなかったのは残念ですが。

手塚作品は他にも『どろろ』とか『アドルフに告ぐ』とかBJ×如月先生もギリそうかな、腐女子として或る側面を楽しめた作品が幾つかありますのでまたの機会にお話しさせていただきたいと思います。

 

MW(ムウ) (1) (小学館文庫)

MW(ムウ) (1) (小学館文庫)

 

松田龍平、という彼岸と詩情の役者について

数年前朝ドラ「あまちゃん」のミズタク役が人気が出たり三浦しをんさんの大ヒット小説『船を編む』の実写化で主演を務めたりした俳優松田龍平さんについての記事です。

BLの世界に入りたての頃、そしてまだBLレーベルのコミックやアニメといったサブカルチャーの世界には足を踏み入れていない頃、書物はおおかた開拓して(いやまだまだなんですが)洋画に移り「アナザーカントリー」を筆頭に観漁ったのち、新たなステージを求めて邦画へと向かった私は「同性愛 邦画」「BL 邦画」「ホモ 邦画」「ゲイ 邦画」などで検索をかけて血眼になって探しているとやたら目に付く松田龍平という役者さん。「御法度」を拝見、主演の美少年に落ちた私はしばらく松田龍平ブームのもとBLはとりあえず置いといて出演作を観漁ったのでした。するとなんということでしょう、BLの方も劣らず付いてきてしまった。

ところで映画俳優さんの中にはどことなくホモっぽい配役を引き寄せてしまう方っていらっしゃるんですよね。しばらく実写BL界隈にいらっしゃった斉藤工さんとか「受け」という概念の権化のような窪田正孝さんとか。そのお二人が共演されてとんでもない化学反応が起こってしまったのがドラマ「火村英生の推理」でしたね。火アリ。

今回は火アリの話ではないのですが松田龍平さんもそういった方面で""何か持っている""俳優さんの一人だと思う。昭和の大俳優松田優作さんのご長男で、イケメン俳優松田翔太さんのお兄様ですけれども、auの三太郎CMなどで大活躍中の弟さんとは見事に被りのないキャラクターで第一線を走りつづけていらっしゃいますよね。個人的には翔太さんがエンタメ小説で龍平さんが純文学、といったイメージ。
松田龍平、デビュー作が濡れ場有りのホモ映画(当時16歳)だったせいか(?)その出演作は腐女子ホイホイものが実に多い。今回はその「松田龍平出演腐女子ホイホイ映画」についてご紹介させていただきたいと思います。


●御法度 大島渚監督


御法度(予告)

司馬遼太郎の短編「前髪の惣三郎」「三条磧乱刃」を下敷きに新撰組を男色的視点から捉えた作品です。ビートたけしさんや浅野忠信さんなど豪華キャストが集結。現代の人と思えないほどのリアリティで「男を惑わす」「幕末期の美少年」を体現した松田龍平氏(16)、田口トモロヲさんとの濡れ場を妖艶に演じきった。さすが大俳優の息子、貫禄が違う。デビュー作ということで演技には不慣れな感じが致しますけれどもむしろ人智を越えた感じが出て許せる。殺陣はめちゃくちゃ美しいです。この子になら斬られても本望だろうな……と。
それだけではないんですよ、関連エピソードがね、その小悪魔ぶりが凄い。共演者さんたちから「姫」って呼ばれていたり、インタビューで「男の人にもてるのどんな気持ち?」と尋ねられて「嬉しいですよ。こんな気持ちないもん」って応えたり、迫るシーンの前「太ももに触らないでね」からの演技後「何で触らないの?僕が嫌いなの?」とか。全てソースはネットのどこかで不確かですが。すみません。

●青い春 豊田利晃監督


青い春 予告編

松本大洋の短編漫画集『青い春』収録の「しあわせならてをたたこう」などをもとに作られた作品です。男子校の不良たちの退廃的で絶望的でセンチメンタルな青春を描いています。根性試しで新記録を打ち立て校内で一目置かれる存在となった厭世的(?)少年「九條」を務めておられます。学ラン姿の美しさは凄まじい。本当に脚長いんですよ。「御法度」とはまた違う美しさ。松田龍平の美は時代を超えて通じるんでないでしょうか。新井浩文演じる「青木」の、九條への憧れと反発から生まれる諸々の行動が愛おしく、最終的に究極の行為をさせてしまうことにも説得力を与えるほどの威風を松田龍平さんの九條は纏っていた。

f:id:ehirocyanos:20170717130356j:plain

個人的に好きな、九條による青木の散髪シーン。可愛い。(画像は予告映像から。)

IZO 三池崇史監督


Izo (trailer)

f:id:ehirocyanos:20170717130449j:plain

未視聴です。R15、まあ三池監督だし。幕末の殺し屋岡田以蔵をモチーフに時空を跨いだ殺戮を描いたファンタジー。桃井かおりさんなど有名俳優さんたちが結集した豪華なキャスト陣です。松田龍平さんは超越者「殿下」として出演されているそうで予告映像だけでもう中性的で美しい。性を超越した美ってこういうのを言うんだなと。レビューなど拝見する限りの判断ですが、めちゃくちゃな構成から深い意味が見出せそうな作品って凄い好きで、絶対私ハマると思うので視聴したらまた感想を書かせていただきます。

46億年の恋 三池崇史監督


46億年之戀 預告

正木亜都『少年Aえれじぃ』原作、殺人罪で同日に入所した2人の少年の魂の交流。松田龍平さんはその一方を演じているのですがその役が元ゲイバー勤めだったり、刑務所内でデキてるデキてないの話があったり、全体を通してホモセクシャルな雰囲気が流れています。何よりも主人公2人の美しくて痛々しい交感が本当に尊い。いやそれにしても、象徴主義というのか解りませんけども全てを詩で語る三池監督作品ほんとツボです。映画でしかできないことってある。

まほろ駅前シリーズ 大森立嗣監督


映画『まほろ駅前多田便利軒』予告編

まほろ駅前多田便利軒」「まほろ駅前狂奏曲」がありますが三浦しをんさん原作『まほろ駅前多田便利軒』の実写化。三浦しをんさんというだけで「匂いホモキター」という感じですけれども瑛太さんとのバディーもの、凄く萌えます。二人で子供預かっちゃったりして、夫婦か。芸術的な松田龍平さんも良いですがコミカル可愛い方も良い。バディーものといったらあとは大泉洋と共演された探BARこと「探偵はBARにいる」もそうですね。


BLとは言えないんですが村上龍原作の「昭和歌謡大全集」の龍平さんも凄く良い。青年たちとオバサンたちの鼬ごっこ殺戮ゲーム。村田充さんとここで共演されていたのは驚きました。あと藤原竜也さん演じる新興宗教の若き教祖を暗殺しに行く「I'm Flash!」もなかなかわけが解らなくて良かった。

まあこのように、概して死とか彼岸とかの空気を纏った退廃的で神々しいキャラクターが松田龍平さんには合うと思うのです。2016年のドラマ「営業部長 吉良奈津子」、あれは視聴率が頗る悪かったみたいですがああいう松田龍平の使い方は良くない! 解ってないな! と私は勝手に盛り上がっていました。松田龍平さんはスカッと系のアメリカンハッピーエンドには向いてないしまともな長台詞はダメなんですよ。松田龍平さんの無表情棒読みは意味の解らん詩を読んで活きるんですよ。いや、凄く可愛かったですけれどもね。

 

冷たさと愛嬌を兼ね備えた容貌に「松田龍平の足が長すぎてちゃんと座れないシリーズ」なるものが存在するほどのスタイルの良さ。素晴らしい、神様ありがとうございます。

百合BL問題、とA感覚論で見るジェンダーについて

昨日Twitterで大炎上した「百合BL問題」について、私なりの解釈です。一番賛成なのは「どうでもいい」という意見ですが、何事も諍いを無くすには誰もが納得のいく説明が必要ですから、優しい世界を作りたいeikouは何とか穏便に説明できないかと試行錯誤してみました。

 

事態の説明。

このツイートで、「百合BLって何!?」「百合厨への検索妨害!」「受動=女性とは性差別!」「どうでもいい」等々様々な議論が引き起こされたわけですけれども、百合界隈の方々がお怒りなのも解る、BL界隈の方々の混乱も解る、ただ所謂百合カプBL厨である私は「百合BL」なるものの市民権を得たいと思ったのです。

 

結論、一言で申し上げるとこの問題は当ブログで何度も引き合いに出させていただいている、稲垣足穂氏の「A感覚とV感覚」を参考にすれば説明が付くと私は考えます。以前「Aを開放した(A的感覚を自覚した)男子は希有」というリリカルな少年やゲイでないBLのファンタジー性についてお話ししたことがありますがここで詳しい説明が一緒にできると思います。

 

以下私の理解するところのA感覚論とは何かというのを、タルホ氏の定義と、そこから私が推測したものや付け加えたもの(★)で以て軽くご説明したいと思います。

・代表的な表記はA=anus、V=vagina、P=penis、K=clitoris(本来Cとされるべきだが本文ママ(たぶん)。ラテン語とかだったりして)、O=oralなど。
・AO円筒=AからOに抜ける無底の空間、宇宙。したがってAは宇宙への入口である。
・ここでの宇宙とは宇宙秩序=真理という形而上的な概念を含む★

・A感覚など上記記号を用いた「○感覚」という表現は、身体的にその部位で受ける感覚・性感のみならず、その部位・感覚の性質が暗示する一般的事象を示すことがある
・V感覚はA感覚の派生
・PV二元論が今日のジェンダー観、即ち男か女かとか男性的=能動、支配、攻撃か女性的=受動、従属、受容とかいう縛り★
・P感覚=男性優位(能動)意識であるが、P感覚は所詮V感覚の裏返しであり取って付けたようなものである

別の記事でこういったことを書かせていただいたことがあります。

現代社会において男性は能動的存在、陰と陽で言うと陽的存在なわけで、これをP意識と呼ぶとすると、現代において男性とはP意識を社会から無意識のうちに強制された人間を差す概念であるのです。その「男性」は社会の中でも無意識に自らにPとしての義務、能動的存在たる義務を課しますがこれは自ずと義務のみならず権利をも自らに許すことになり女性への差別・区別意識などにさえ繋がっています。

BL界の鬼才はらだ、とBLの社会的意義について - 少年愛之美学

社会的性差、男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだという固定観念のことですが、これはどうしてもあると思います。性差別からの解放が謳われる現代ですが男女区別の善悪は問えない、寧ろ仕方がないし自然なことだとeikouは思う。なぜなら生物学的男女の区別は生殖における潜在的能力の区別、つまり一種の能力のカテゴライズだからです。適材適所という言葉は理にかなっているし、実際個人差はあれど妊娠出産には一定の期間を要し、他と全く同じに扱っていたら社会の中で混乱や停滞が生まれてしまいます。だからその差異を踏まえた上で、最善策を模索していくしかないでしょう。

話が逸れましたがこれをA感覚論で説明すると上記のようにPV二元論となりますけれどもその言い方はこの固定観念が根本的でないということ、そしてPもVも本来はAという同一の感覚に帰すものであるということを示す言い方です。即ち、男らしさや女らしさというも所詮暫定的で後付け的価値観に過ぎず、男女の間に実質的に二元的差異は無いということになります。この辺りは現代主流となりつつある見方と合致すると思います。

 

ひとまず男性に限ってお話しすると今は社会の一員として生まれた瞬間からPの役割を教え込まれてその価値観の中で人は育つ故に,Aに気付く間もなくPへと自然と意識が向かされてしまいますから、男子が自らのA的部分を自覚する契機は排便か肛門の性的行使のみとなります。(まあ女性についてもだいたいこんなものでしょう。)そういうわけで、後者を端緒に全存在の一元性や平等性という或種仏教的考えに至るためにも、ジェンダーの課題としてBLを読んでみるというのは如何でしょう? というのが上の引用記事の全体の内容です、ちなみに。

 

生物学的性を一度全て取っ払ってみて、その上で、二人の人間の関係性としてPやVを割り当ててみる。「P=能動、支配」、「V=受動、従属」というのを基準にそれをやってみる、そうした時、生物学的性に関わらず、BLGLNLトランス異性装両性具有などに関わらず、攻め=P、受け=Vと置くことができる。

ここで百合BLについて話を戻しますけれども、Vを行使するまで行かない初々しい「百合」行為の代表というか象徴というかは、いやおっぱいもそうですけれど、もっとより核心を突いたもの(高度なシャレです)がKの相互的慰撫であります。Kは何を象徴するかと言いますと、Vの一部ではあるけれどPを暗示させるものでもあり一つを除いて何の意味も持たないという取り残されたメリーバッドな哀愁がある。タルホ氏もこの「K感覚」について、「幾分の感傷を持った」と表現されています。
そして受×受BLとは、両者とも「受け」という従属的性質をほぼ対等に持ちながら遠慮がちに互いの(比喩的なまたは文字通りの)K的Pを慈しみ合う関係性ですよね。
百合BLとはまさにこの「相互にK感覚を保有したBL」のことではないかと、とどのつまりこれが私の「百合BL」に対する見解となります。

 

百合カプすごい好きなんですがこの言い方だと不本意に怒りを買うようだし結構通じないようですね。なんと呼べばいいんでしょう……困った……とりあえず『百合BL』は買いですね。

百合BL (Charles Comics)

百合BL (Charles Comics)

 

 

ボーイズクワイア、少年という概念のロマンとその象徴ついて

トーマの心臓』を筆頭にギムナジウムもの・寄宿舎ものなどと呼ばれるヨーロッパの全寮制男子校を舞台とした創作物に欠かせない要素の一つとしてミサがあり、お話の舞台となるヨーロッパの寄宿学校というのはたいていミッションスクールなので朝の礼拝や追悼礼拝のシーンが描かれまして、生徒達が讃美歌を歌うシーンがあるのです。ここでは「少年」という言葉を年少者という意味より狭く「男子」の意味として使わせていただいていますが、寄宿舎ものを通った方の多くはそこに開かれた少年合唱というジャンルへの扉を少なからず覗いてみたことがあるのではと思います。まあトーマが1974年・風と木の歌が1976年連載開始で、日本の少年合唱ブームが1950年代~60年代らしいですからどちらかと言いますと合唱が先でこれらの作品群も触発された側なんでしょうが、「少年」というテーマに目を付ける女性作家を輩出しその作家たちが事実上今日のボーイズラブ文化の礎の一端となっていることを考慮すると少年合唱の輸入の影響は大きかったのではないでしょうかね。

「寄宿舎もの」とボーイズクワイアは白人の少年、キリスト教、ヨーロッパ、男性社会、ホモソーシャルなどのイメージにより密接に結びついていて、竹宮惠子作品チックな金髪白皙の聖歌隊のイメージが強いですけれども、今はウィーン少年合唱団でも日本人を含む多国籍・多民族化が見られます。でもやっぱり保守的・伝統的・固定的組織というものへのロマンもある。聖歌隊とただの合唱団との間にもまた違う趣がある。

少年の歌声の価値の一つはその刹那性だと思います。芸術にかなった歌を歌う分別が付いてから変声期を迎えるまでのほんの僅かな蜜月が声のそれのみならず少年という儚い存在そのものへのロマンを喚起するのです。少年の身体は美しいけれどもそれ以上に概念として美しい。その概念は「この美しさが永遠であれば良いのに」という切望と非情の現実との対比から立ち表れる永遠性を担っている。このテーマについては以前からちょいちょい語らせていただいています。

仮説②、古来より刹那性の象徴である(『ヴェニスに死す』等)少年は、ソクラテスのエロス論に基づけば、自分に欠乏するもの=永遠性を渇望し、その切ない憧れとしての「永遠性に対する性欲」こそA感覚=原始的性感と言えるので、何よりも根源的存在である。

鳩山郁子、と架空生物としての少年について - 少年愛之美学

「永遠性の渇望」については世阿弥著の芸能理論書『風姿花伝』に語られています。少年の美しさは移ろいやすく、変声期が訪れたり不安定な柳腰になってきたりしてすぐに枯れてしまう、だから能において追究すべき美は見た目の美しさではなく永久不滅の「花」である……というのが概要であったように虚覚えておりますけれども、裏を返せばそこには永遠性を手に入れることができない人間の悲哀のようなものがあって、それがこの芸術の原動力となっているということなのかなと思います。

世阿弥萌え、足利義満×世阿弥と男色から生まれる美意識について - 少年愛之美学

少年から男性への変化というのは少女から女性へのそれよりも顕著です。その一つの事実であると同時に象徴であるものが変声であると思う。そういった意味でボーイズクワイア、少年合唱というのは少年の一瞬性の美学のまさに象徴と言えるのかな、と。

以上ショタコン女の熱弁でした。

代表的なボーイズクワイアをいくつかご紹介させていただきます。

ウィーン少年合唱団


"Tritsch Tratsch Polka," sung by the Vienna Boys' Choir
言うまでもなく世界でもっとも有名なボーイズクワイア。伝統的な印象。聖歌もありますが民謡なども取り入れられていて比較的宗教色が薄い感じが致します。2012年くらいの公演を見に行った時には日本の伝統曲「さくら」や、東北の震災の「花は咲く」を歌われていました。セーラー服の制服が可愛いです。

●ボーイズエアクワイア


Boys Air Choir - Boys on Bach.wmv
伝説のソリスト、コナー・バロウズに始まる英国聖歌隊のトップ・ソリスト達を集めて結成された夢のクワイア。その売り名に恥じず本当に完成度が高く洗練されている。個人的にBACの「Eja Mater」は今のところボーイズクワイア曲の中で一番好き。

●リベラ


Libera リベラ Far away 彼方の光
POPで親しみやすいと思います。白いローブが特徴。マジ天使。

 

他にもパリ木の十字架少年合唱団とかケンブリッジ・キングス・カレッジ聖歌隊とか少年のみからなる合唱団は世界各地に存在します。私もまだまだ少年合唱の世界を開拓していきたい。

『霊応ゲーム』、ホラーと美少年の親和性について

クレイジーサイコホモ文学として一部界隈では定評のある、萩尾望都竹宮恵子作品に代表されるギムナジウムもの・寄宿舎ものが好きな方には最早マストの英国パブリックスクールを舞台にしたホラーサスペンス小説『霊応ゲーム』、全寮制男子校もので作者は本場パブリックスクール出身の弁護士パトリック・レドモンド氏、ということですからその作品世界にも現実味があります。主人公達の蜜月の他にも過去に教師と恋仲になって放校処分となった生徒のエピソードがあったりとちょいちょい同性愛的ネタが入っているのですが先述のように作者は実際のパブリックスクールライフの経験者ですから、これは「リアル」だと思って良いのか!? と腐女子としては夢の膨らむ作品です。

あらすじをAmazonから引用させていただきます。後程リンクを貼ります。

 

”1954年、イギリスの名門パブリック・スクールで学ぶ14歳の気弱な少年ジョナサンは、同級生ばかりか教師にまでいじめられ、つらい日々を送っていた。しかしある時から、クラスで一目置かれる一匹狼のリチャードと仲良くなる。二人が親密になるにつれ、ジョナサンをいじめる悪童グループの仲間が一人、また一人と不可解な事件や事故に巻き込まれていく…彼らにいったい何が?少年たちの歪んだ心を巧みに描いた幻の傑作。”

 

心霊・オカルトの要素が強く後味がめちゃくちゃ悪かったのを覚えています。ストーリー中に登場する降霊術に巻き込まれてしまったような不快感というか。それが本作のリアリティーですね。

BL的視点からご紹介させていただくと「ミステリアス美少年×気弱な平凡少年のクレイジーサイコホモ」となるんですけれどもこの小説に登場するリチャードという美少年が本当に美少年で、閉塞空間で自尊心の動揺を経験すると少なからず逸脱的存在に惹かれてしまうというのはよくあることですがこのリチャードの魔性は思春期の鬱々と自尊心の外傷に生気を抜かれていた主人公ジョナサンの崇拝を受けるには十分すぎるカリスマを持っていた。そして逸脱への傾倒は危険と紙一重で、結局若い身を滅ぼす結果になることもしばしばであるという普遍的テーマもさり気なく描かれているのかなとも感じられるあたりどことなく古屋兎丸みがある。

恐怖・不気味というモチーフに美しさという装飾が被せられた時にどんな芸術的爆発が起こるかという、それはもうゴシック様式美術的な厳かな美しさですよね。リチャード君の絵画性と少年同士の純粋でエロティックな交流(このエロティックが通俗的帰着にまで踏み切らないところに美学がある!)と、そこに常に限りなく死に近いメランコリーという精神的舞台があって、もう美しいとしか言いようがない。

セックスには至らないと書いたところですが何せしばしば「公式か二時創作か解らない」状況に陥る腐女子が数年前に読んだ小説について書いているわけですから不安になってきました。是非皆さんの目でお確かめになっていただきたいと思います。

 

思い付いたまま書き散らしている記事ですから今回はうろ覚えだったもので軽めに終わらせていただきますが後日再読してまた感想を付け足せたらなと思っています。

霊応ゲーム (ハヤカワ文庫NV)

霊応ゲーム (ハヤカワ文庫NV)