少年愛之美学

守備範囲がやや広めの腐女子による鑑賞と思索。

松田龍平、という彼岸と詩情の役者について

数年前朝ドラ「あまちゃん」のミズタク役が人気が出たり三浦しをんさんの大ヒット小説『船を編む』の実写化で主演を務めたりした俳優松田龍平さんについての記事です。

BLの世界に入りたての頃、そしてまだBLレーベルのコミックやアニメといったサブカルチャーの世界には足を踏み入れていない頃、書物はおおかた開拓して(いやまだまだなんですが)洋画に移り「アナザーカントリー」を筆頭に観漁ったのち、新たなステージを求めて邦画へと向かった私は「同性愛 邦画」「BL 邦画」「ホモ 邦画」「ゲイ 邦画」などで検索をかけて血眼になって探しているとやたら目に付く松田龍平という役者さん。「御法度」を拝見、主演の美少年に落ちた私はしばらく松田龍平ブームのもとBLはとりあえず置いといて出演作を観漁ったのでした。するとなんということでしょう、BLの方も劣らず付いてきてしまった。

ところで映画俳優さんの中にはどことなくホモっぽい配役を引き寄せてしまう方っていらっしゃるんですよね。しばらく実写BL界隈にいらっしゃった斉藤工さんとか「受け」という概念の権化のような窪田正孝さんとか。そのお二人が共演されてとんでもない化学反応が起こってしまったのがドラマ「火村英生の推理」でしたね。火アリ。

今回は火アリの話ではないのですが松田龍平さんもそういった方面で""何か持っている""俳優さんの一人だと思う。昭和の大俳優松田優作さんのご長男で、イケメン俳優松田翔太さんのお兄様ですけれども、auの三太郎CMなどで大活躍中の弟さんとは見事に被りのないキャラクターで第一線を走りつづけていらっしゃいますよね。個人的には翔太さんがエンタメ小説で龍平さんが純文学、といったイメージ。
松田龍平、デビュー作が濡れ場有りのホモ映画(当時16歳)だったせいか(?)その出演作は腐女子ホイホイものが実に多い。今回はその「松田龍平出演腐女子ホイホイ映画」についてご紹介させていただきたいと思います。


●御法度 大島渚監督


御法度(予告)

司馬遼太郎の短編「前髪の惣三郎」「三条磧乱刃」を下敷きに新撰組を男色的視点から捉えた作品です。ビートたけしさんや浅野忠信さんなど豪華キャストが集結。現代の人と思えないほどのリアリティで「男を惑わす」「幕末期の美少年」を体現した松田龍平氏(16)、田口トモロヲさんとの濡れ場を妖艶に演じきった。さすが大俳優の息子、貫禄が違う。デビュー作ということで演技には不慣れな感じが致しますけれどもむしろ人智を越えた感じが出て許せる。殺陣はめちゃくちゃ美しいです。この子になら斬られても本望だろうな……と。
それだけではないんですよ、関連エピソードがね、その小悪魔ぶりが凄い。共演者さんたちから「姫」って呼ばれていたり、インタビューで「男の人にもてるのどんな気持ち?」と尋ねられて「嬉しいですよ。こんな気持ちないもん」って応えたり、迫るシーンの前「太ももに触らないでね」からの演技後「何で触らないの?僕が嫌いなの?」とか。全てソースはネットのどこかで不確かですが。すみません。

●青い春 豊田利晃監督


青い春 予告編

松本大洋の短編漫画集『青い春』収録の「しあわせならてをたたこう」などをもとに作られた作品です。男子校の不良たちの退廃的で絶望的でセンチメンタルな青春を描いています。根性試しで新記録を打ち立て校内で一目置かれる存在となった厭世的(?)少年「九條」を務めておられます。学ラン姿の美しさは凄まじい。本当に脚長いんですよ。「御法度」とはまた違う美しさ。松田龍平の美は時代を超えて通じるんでないでしょうか。新井浩文演じる「青木」の、九條への憧れと反発から生まれる諸々の行動が愛おしく、最終的に究極の行為をさせてしまうことにも説得力を与えるほどの威風を松田龍平さんの九條は纏っていた。

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個人的に好きな、九條による青木の散髪シーン。可愛い。(画像は予告映像から。)

IZO 三池崇史監督


Izo (trailer)

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未視聴です。R15、まあ三池監督だし。幕末の殺し屋岡田以蔵をモチーフに時空を跨いだ殺戮を描いたファンタジー。桃井かおりさんなど有名俳優さんたちが結集した豪華なキャスト陣です。松田龍平さんは超越者「殿下」として出演されているそうで予告映像だけでもう中性的で美しい。性を超越した美ってこういうのを言うんだなと。レビューなど拝見する限りの判断ですが、めちゃくちゃな構成から深い意味が見出せそうな作品って凄い好きで、絶対私ハマると思うので視聴したらまた感想を書かせていただきます。

46億年の恋 三池崇史監督


46億年之戀 預告

正木亜都『少年Aえれじぃ』原作、殺人罪で同日に入所した2人の少年の魂の交流。松田龍平さんはその一方を演じているのですがその役が元ゲイバー勤めだったり、刑務所内でデキてるデキてないの話があったり、全体を通してホモセクシャルな雰囲気が流れています。何よりも主人公2人の美しくて痛々しい交感が本当に尊い。いやそれにしても、象徴主義というのか解りませんけども全てを詩で語る三池監督作品ほんとツボです。映画でしかできないことってある。

まほろ駅前シリーズ 大森立嗣監督


映画『まほろ駅前多田便利軒』予告編

まほろ駅前多田便利軒」「まほろ駅前狂奏曲」がありますが三浦しをんさん原作『まほろ駅前多田便利軒』の実写化。三浦しをんさんというだけで「匂いホモキター」という感じですけれども瑛太さんとのバディーもの、凄く萌えます。二人で子供預かっちゃったりして、夫婦か。芸術的な松田龍平さんも良いですがコミカル可愛い方も良い。バディーものといったらあとは大泉洋と共演された探BARこと「探偵はBARにいる」もそうですね。


BLとは言えないんですが村上龍原作の「昭和歌謡大全集」の龍平さんも凄く良い。青年たちとオバサンたちの鼬ごっこ殺戮ゲーム。村田充さんとここで共演されていたのは驚きました。あと藤原竜也さん演じる新興宗教の若き教祖を暗殺しに行く「I'm Flash!」もなかなかわけが解らなくて良かった。

まあこのように、概して死とか彼岸とかの空気を纏った退廃的で神々しいキャラクターが松田龍平さんには合うと思うのです。2016年のドラマ「営業部長 吉良奈津子」、あれは視聴率が頗る悪かったみたいですがああいう松田龍平の使い方は良くない! 解ってないな! と私は勝手に盛り上がっていました。松田龍平さんはスカッと系のアメリカンハッピーエンドには向いてないしまともな長台詞はダメなんですよ。松田龍平さんの無表情棒読みは意味の解らん詩を読んで活きるんですよ。いや、凄く可愛かったですけれどもね。

 

冷たさと愛嬌を兼ね備えた容貌に「松田龍平の足が長すぎてちゃんと座れないシリーズ」なるものが存在するほどのスタイルの良さ。素晴らしい、神様ありがとうございます。

百合BL問題、とA感覚論で見るジェンダーについて

昨日Twitterで大炎上した「百合BL問題」について、私なりの解釈です。一番賛成なのは「どうでもいい」という意見ですが、何事も諍いを無くすには誰もが納得のいく説明が必要ですから、優しい世界を作りたいeikouは何とか穏便に説明できないかと試行錯誤してみました。

 

事態の説明。

このツイートで、「百合BLって何!?」「百合厨への検索妨害!」「受動=女性とは性差別!」「どうでもいい」等々様々な議論が引き起こされたわけですけれども、百合界隈の方々がお怒りなのも解る、BL界隈の方々の混乱も解る、ただ所謂百合カプBL厨である私は「百合BL」なるものの市民権を得たいと思ったのです。

 

結論、一言で申し上げるとこの問題は当ブログで何度も引き合いに出させていただいている、稲垣足穂氏の「A感覚とV感覚」を参考にすれば説明が付くと私は考えます。以前「Aを開放した(A的感覚を自覚した)男子は希有」というリリカルな少年やゲイでないBLのファンタジー性についてお話ししたことがありますがここで詳しい説明が一緒にできると思います。

 

以下私の理解するところのA感覚論とは何かというのを、タルホ氏の定義と、そこから私が推測したものや付け加えたもの(★)で以て軽くご説明したいと思います。

・代表的な表記はA=anus、V=vagina、P=penis、K=clitoris(本来Cとされるべきだが本文ママ(たぶん)。ラテン語とかだったりして)、O=oralなど。
・AO円筒=AからOに抜ける無底の空間、宇宙。したがってAは宇宙への入口である。
・ここでの宇宙とは宇宙秩序=真理という形而上的な概念を含む★

・A感覚など上記記号を用いた「○感覚」という表現は、身体的にその部位で受ける感覚・性感のみならず、その部位・感覚の性質が暗示する一般的事象を示すことがある
・V感覚はA感覚の派生
・PV二元論が今日のジェンダー観、即ち男か女かとか男性的=能動、支配、攻撃か女性的=受動、従属、受容とかいう縛り★
・P感覚=男性優位(能動)意識であるが、P感覚は所詮V感覚の裏返しであり取って付けたようなものである

別の記事でこういったことを書かせていただいたことがあります。

現代社会において男性は能動的存在、陰と陽で言うと陽的存在なわけで、これをP意識と呼ぶとすると、現代において男性とはP意識を社会から無意識のうちに強制された人間を差す概念であるのです。その「男性」は社会の中でも無意識に自らにPとしての義務、能動的存在たる義務を課しますがこれは自ずと義務のみならず権利をも自らに許すことになり女性への差別・区別意識などにさえ繋がっています。

BL界の鬼才はらだ、とBLの社会的意義について - 少年愛之美学

社会的性差、男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだという固定観念のことですが、これはどうしてもあると思います。性差別からの解放が謳われる現代ですが男女区別の善悪は問えない、寧ろ仕方がないし自然なことだとeikouは思う。なぜなら生物学的男女の区別は生殖における潜在的能力の区別、つまり一種の能力のカテゴライズだからです。適材適所という言葉は理にかなっているし、実際個人差はあれど妊娠出産には一定の期間を要し、他と全く同じに扱っていたら社会の中で混乱や停滞が生まれてしまいます。だからその差異を踏まえた上で、最善策を模索していくしかないでしょう。

話が逸れましたがこれをA感覚論で説明すると上記のようにPV二元論となりますけれどもその言い方はこの固定観念が根本的でないということ、そしてPもVも本来はAという同一の感覚に帰すものであるということを示す言い方です。即ち、男らしさや女らしさというも所詮暫定的で後付け的価値観に過ぎず、男女の間に実質的に二元的差異は無いということになります。この辺りは現代主流となりつつある見方と合致すると思います。

 

ひとまず男性に限ってお話しすると今は社会の一員として生まれた瞬間からPの役割を教え込まれてその価値観の中で人は育つ故に,Aに気付く間もなくPへと自然と意識が向かされてしまいますから、男子が自らのA的部分を自覚する契機は排便か肛門の性的行使のみとなります。(まあ女性についてもだいたいこんなものでしょう。)そういうわけで、後者を端緒に全存在の一元性や平等性という或種仏教的考えに至るためにも、ジェンダーの課題としてBLを読んでみるというのは如何でしょう? というのが上の引用記事の全体の内容です、ちなみに。

 

生物学的性を一度全て取っ払ってみて、その上で、二人の人間の関係性としてPやVを割り当ててみる。「P=能動、支配」、「V=受動、従属」というのを基準にそれをやってみる、そうした時、生物学的性に関わらず、BLGLNLトランス異性装両性具有などに関わらず、攻め=P、受け=Vと置くことができる。

ここで百合BLについて話を戻しますけれども、Vを行使するまで行かない初々しい「百合」行為の代表というか象徴というかは、いやおっぱいもそうですけれど、もっとより核心を突いたもの(高度なシャレです)がKの相互的慰撫であります。Kは何を象徴するかと言いますと、Vの一部ではあるけれどPを暗示させるものでもあり一つを除いて何の意味も持たないという取り残されたメリーバッドな哀愁がある。タルホ氏もこの「K感覚」について、「幾分の感傷を持った」と表現されています。
そして受×受BLとは、両者とも「受け」という従属的性質をほぼ対等に持ちながら遠慮がちに互いの(比喩的なまたは文字通りの)K的Pを慈しみ合う関係性ですよね。
百合BLとはまさにこの「相互にK感覚を保有したBL」のことではないかと、とどのつまりこれが私の「百合BL」に対する見解となります。

 

百合カプすごい好きなんですがこの言い方だと不本意に怒りを買うようだし結構通じないようですね。なんと呼べばいいんでしょう……困った……とりあえず『百合BL』は買いですね。

百合BL (Charles Comics)

百合BL (Charles Comics)

 

 

ボーイズクワイア、少年という概念のロマンとその象徴ついて

トーマの心臓』を筆頭にギムナジウムもの・寄宿舎ものなどと呼ばれるヨーロッパの全寮制男子校を舞台とした創作物に欠かせない要素の一つとしてミサがあり、お話の舞台となるヨーロッパの寄宿学校というのはたいていミッションスクールなので朝の礼拝や追悼礼拝のシーンが描かれまして、生徒達が讃美歌を歌うシーンがあるのです。ここでは「少年」という言葉を年少者という意味より狭く「男子」の意味として使わせていただいていますが、寄宿舎ものを通った方の多くはそこに開かれた少年合唱というジャンルへの扉を少なからず覗いてみたことがあるのではと思います。まあトーマが1974年・風と木の歌が1976年連載開始で、日本の少年合唱ブームが1950年代~60年代らしいですからどちらかと言いますと合唱が先でこれらの作品群も触発された側なんでしょうが、「少年」というテーマに目を付ける女性作家を輩出しその作家たちが事実上今日のボーイズラブ文化の礎の一端となっていることを考慮すると少年合唱の輸入の影響は大きかったのではないでしょうかね。

「寄宿舎もの」とボーイズクワイアは白人の少年、キリスト教、ヨーロッパ、男性社会、ホモソーシャルなどのイメージにより密接に結びついていて、竹宮惠子作品チックな金髪白皙の聖歌隊のイメージが強いですけれども、今はウィーン少年合唱団でも日本人を含む多国籍・多民族化が見られます。でもやっぱり保守的・伝統的・固定的組織というものへのロマンもある。聖歌隊とただの合唱団との間にもまた違う趣がある。

少年の歌声の価値の一つはその刹那性だと思います。芸術にかなった歌を歌う分別が付いてから変声期を迎えるまでのほんの僅かな蜜月が声のそれのみならず少年という儚い存在そのものへのロマンを喚起するのです。少年の身体は美しいけれどもそれ以上に概念として美しい。その概念は「この美しさが永遠であれば良いのに」という切望と非情の現実との対比から立ち表れる永遠性を担っている。このテーマについては以前からちょいちょい語らせていただいています。

仮説②、古来より刹那性の象徴である(『ヴェニスに死す』等)少年は、ソクラテスのエロス論に基づけば、自分に欠乏するもの=永遠性を渇望し、その切ない憧れとしての「永遠性に対する性欲」こそA感覚=原始的性感と言えるので、何よりも根源的存在である。

鳩山郁子、と架空生物としての少年について - 少年愛之美学

「永遠性の渇望」については世阿弥著の芸能理論書『風姿花伝』に語られています。少年の美しさは移ろいやすく、変声期が訪れたり不安定な柳腰になってきたりしてすぐに枯れてしまう、だから能において追究すべき美は見た目の美しさではなく永久不滅の「花」である……というのが概要であったように虚覚えておりますけれども、裏を返せばそこには永遠性を手に入れることができない人間の悲哀のようなものがあって、それがこの芸術の原動力となっているということなのかなと思います。

世阿弥萌え、足利義満×世阿弥と男色から生まれる美意識について - 少年愛之美学

少年から男性への変化というのは少女から女性へのそれよりも顕著です。その一つの事実であると同時に象徴であるものが変声であると思う。そういった意味でボーイズクワイア、少年合唱というのは少年の一瞬性の美学のまさに象徴と言えるのかな、と。

以上ショタコン女の熱弁でした。

代表的なボーイズクワイアをいくつかご紹介させていただきます。

ウィーン少年合唱団


"Tritsch Tratsch Polka," sung by the Vienna Boys' Choir
言うまでもなく世界でもっとも有名なボーイズクワイア。伝統的な印象。聖歌もありますが民謡なども取り入れられていて比較的宗教色が薄い感じが致します。2012年くらいの公演を見に行った時には日本の伝統曲「さくら」や、東北の震災の「花は咲く」を歌われていました。セーラー服の制服が可愛いです。

●ボーイズエアクワイア


Boys Air Choir - Boys on Bach.wmv
伝説のソリスト、コナー・バロウズに始まる英国聖歌隊のトップ・ソリスト達を集めて結成された夢のクワイア。その売り名に恥じず本当に完成度が高く洗練されている。個人的にBACの「Eja Mater」は今のところボーイズクワイア曲の中で一番好き。

●リベラ


Libera リベラ Far away 彼方の光
POPで親しみやすいと思います。白いローブが特徴。マジ天使。

 

他にもパリ木の十字架少年合唱団とかケンブリッジ・キングス・カレッジ聖歌隊とか少年のみからなる合唱団は世界各地に存在します。私もまだまだ少年合唱の世界を開拓していきたい。

『霊応ゲーム』、ホラーと美少年の親和性について

クレイジーサイコホモ文学として一部界隈では定評のある、萩尾望都竹宮恵子作品に代表されるギムナジウムもの・寄宿舎ものが好きな方には最早マストの英国パブリックスクールを舞台にしたホラーサスペンス小説『霊応ゲーム』、全寮制男子校もので作者は本場パブリックスクール出身の弁護士パトリック・レドモンド氏、ということですからその作品世界にも現実味があります。主人公達の蜜月の他にも過去に教師と恋仲になって放校処分となった生徒のエピソードがあったりとちょいちょい同性愛的ネタが入っているのですが先述のように作者は実際のパブリックスクールライフの経験者ですから、これは「リアル」だと思って良いのか!? と腐女子としては夢の膨らむ作品です。

あらすじをAmazonから引用させていただきます。後程リンクを貼ります。

 

”1954年、イギリスの名門パブリック・スクールで学ぶ14歳の気弱な少年ジョナサンは、同級生ばかりか教師にまでいじめられ、つらい日々を送っていた。しかしある時から、クラスで一目置かれる一匹狼のリチャードと仲良くなる。二人が親密になるにつれ、ジョナサンをいじめる悪童グループの仲間が一人、また一人と不可解な事件や事故に巻き込まれていく…彼らにいったい何が?少年たちの歪んだ心を巧みに描いた幻の傑作。”

 

心霊・オカルトの要素が強く後味がめちゃくちゃ悪かったのを覚えています。ストーリー中に登場する降霊術に巻き込まれてしまったような不快感というか。それが本作のリアリティーですね。

BL的視点からご紹介させていただくと「ミステリアス美少年×気弱な平凡少年のクレイジーサイコホモ」となるんですけれどもこの小説に登場するリチャードという美少年が本当に美少年で、閉塞空間で自尊心の動揺を経験すると少なからず逸脱的存在に惹かれてしまうというのはよくあることですがこのリチャードの魔性は思春期の鬱々と自尊心の外傷に生気を抜かれていた主人公ジョナサンの崇拝を受けるには十分すぎるカリスマを持っていた。そして逸脱への傾倒は危険と紙一重で、結局若い身を滅ぼす結果になることもしばしばであるという普遍的テーマもさり気なく描かれているのかなとも感じられるあたりどことなく古屋兎丸みがある。

恐怖・不気味というモチーフに美しさという装飾が被せられた時にどんな芸術的爆発が起こるかという、それはもうゴシック様式美術的な厳かな美しさですよね。リチャード君の絵画性と少年同士の純粋でエロティックな交流(このエロティックが通俗的帰着にまで踏み切らないところに美学がある!)と、そこに常に限りなく死に近いメランコリーという精神的舞台があって、もう美しいとしか言いようがない。

セックスには至らないと書いたところですが何せしばしば「公式か二時創作か解らない」状況に陥る腐女子が数年前に読んだ小説について書いているわけですから不安になってきました。是非皆さんの目でお確かめになっていただきたいと思います。

 

思い付いたまま書き散らしている記事ですから今回はうろ覚えだったもので軽めに終わらせていただきますが後日再読してまた感想を付け足せたらなと思っています。

霊応ゲーム (ハヤカワ文庫NV)

霊応ゲーム (ハヤカワ文庫NV)

 

 

KAZAKY、と舞踏から見るシャーマニズム×エロスについて

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 肉体美、ハイヒール男子、ゲイライク、こういったワードにピンと来た方にはウクライナの男性ダンスユニット"KAZAKY"をおすすめしたい。
筋肉隆々のイケメン達が14cmピンヒールを履き中性的衣装と振付でアーティスティックに踊る、バレエ仕込みで完成度が高く、かつフェティシスティックな作風に性癖を掴まれる方は多いはずです。
マドンナの「Girl Gone Wild」のMVのバックダンサーを勤めて話題となったようですがまだAVを知らなかった頃の少女eikouはドキドキして見ていましたね、大人になったらこのストリップショーのような公演を是非見に行きたい! と思っていたら、まあ、いつの間にか解散してたんですよね。そう、KAZAKYは2016年に解散してしまい今はメンバーの方々はソロ活動やダンススクールの講師などを各々されているようです。情報が古くて申し訳ないんですがどうしても彼らを知らなかった方に布教したいという気持が強かった。解散は残念ですが勿論作品はまだYouTubeで見られます。代表作というか、ブームのきっかけとなったナンバーがこちら。


Kazaky - Love (Official Music Video)

デビュー作「In the Middle」ではまだストリート系(?)の衣装で、一部にハイヒールを履いて男性が(シルエットですが股間の辺りの強調等から男性と思われる)踊っているカットがありますがこの「Love」では一貫してピンヒールで、その中性的イメージがウケたらしい。

ユーリオンアイスのところでも昨今の「男性美を商品とする」現象を指摘申し上げましたがこのkazakyもそういった事象の一端かと思います。どうもP感覚の強い(つまり男性アーティストならばターゲットは女性という)イメージのあるヨーロッパ音楽ですがこちらは男性にも女性にも売られている、いやむしろMVに申し訳程度に女性が配置されている程には男性向けステレオタイプ感の拭えない感じが、天晴れ。男女の絡むセクシーさを見せるためではなく、男性のセクシーさを見せるために女性が小道具として用いられているという作品スタイルかなとeikouは思います。

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以下少し、いつもの抽象的な話。
音楽の起源とは何なんでしょうかというお話は平沢進さんについての記事の時にちょっと考えてみたんですけれども舞踏についてもおおよそ似ているんではないかと思いまして、つまり「生殖か呪術か」という。舞踏の起源は呪術的儀式ではないかというのはよく言われていることですが舞踏が音楽に比べてより性的モチーフが際立つ・活きる表現形態だというのは確かでしょう。ところで以前祈りは神とのsexだという暴論を成したことがありますが、呪術や宗教のような「神=自然秩序に対する働きかけ」の行為におけるエロス的側面がここで接続の役割を果たすのではないかと思います。ダンスアートとはそういったA感覚的儀式の側面をも持つということがひとまず、言えるのかな。

 

追伸:はじめに、A感覚について - 少年愛之美学の記事を、もう少し解りやすくなるように編集しました。

「ユーリ!!! on ICE」、とアイデンティティの闘争について〈YOI感想後編〉

アニメユーリオンアイスの感想後編になります。今回はどちらかというとキャラクターの人間性に踏み込んだ妄想じみた考察を、ことさら筋道を立てずに書き連ねていきます。前編はこちら↓

 

ehirocyanos.hatenablog.com

 

前回、フィギュアスケートの美を競う競技としての性質についてお話させていただきましたけれどもやっぱり「美を競う」、そして「個人競技である」ことによる厳しさから、自己顕示というのも彼らが闘っている重要な原動力の一つなのだろうということを、作品を見返していて個人的によく再確認します。彼らのスケートはピチット君や南君のように「観客を楽しませたい!」という信念や勇利のように「もっとヴィクトルと滑りたい!」という前言語的喜びやユリオのように一家の生活が掛かっているというハングリー精神など様々な動機にも当然支えられていると思うのですが、それと同時に、何というか、自分が自分を示せるのはスケートだけ、というようにアイデンティティのためにしがみついている感じ。自分を成り立たせるために何かにしがみつくという感覚は多くの現代人に共通すると思いますがこのアニメのキャラクターたちにとってそのアイデンティティのよりしろがスケートだったという、おれの方が彼よりももっとうまくやれる、おれの方がもっと美しく踊れる、そんな必死さがある。ようにeikouには感じられるのです。

皆基本的に良い奴らでお互いのことを心から尊敬してるしオフアイスでは一緒に過ごすと心から楽しい良い友達だと思うんですが、各々トップアスリートには或意味当たり前のプライドを持っているし、お互い刺激を受けてるし、自分が表彰台に上がるためにはお互いが(正々堂々、自らの競技スキルによって)蹴落とさなくてはならない相手だと言うことも十分解っている。その上で「負けた! クッソ覚えてろ~」とか敵対心剥き出しとかそういうシンプルな関係ではない(ユーリ・プリセツキーとかいう例外くさいのも居る)。この辺りにリアルさを感じるのです。もっと複雑でいやらしい感じがするんですよね。特にこの作品は高校生の部活ではなくプロの世界ですし成人率が他のスポーツものに比べ高いですから剥き出しにせず押し殺しているものも多いと思う。

そのユーリ・プリセツキーが例外くさいのも、彼が分類で言うと「天才型」であるからでしょうか。どちらかというと「死ぬ気でやらなければ勝てない」選手の方に、よりその必死さが見える気が致します。

例えばクリストフ・ジャコメッティー、彼の性格には女性的な性質が多分にあるように私には感じられます。何をもって女性的といえるのかは曖昧なところですが何となしにネチネチしているところでしょうか。公式ファンブックでも「天才型ではない」ということが明示されていましたが、放っておいても結果が付いてくるヴィクトルとに対し必死扱いて表彰台に上がれたり上がれなかったりのクリスは人一倍張り詰めた思いで試合に向かっているように見えるのです。それでああいうお色気路線のお茶目キャラですからあれで根は真面目なんだな~と思うと胸熱。

同様にピチット・チュラノン、自撮りおばけの時点で既に女子高生なんですけども、彼もクリスに似たところがあると思います。SNS中毒というので既にちょっとした自己顕示欲の塊みたいなところがありますが彼も他の選手に比べスキルが低い(飛べるジャンプが少ない)分自己主張をし続けることができる精神力がエンジンとなっているように見える。

競技の性質上、自分が勝敗を左右できる時間を対戦相手と共有できないというもどかしさがそういう良い意味のいやらしさを自然と培ってしまうのかな、とも。フィギュアスケートの大会に選手として出た経験はないので無論想像の域を脱しませんが、特に先攻(?)は自分の競技が終わった後は、時には取り返しのつかない自らのミスを悔やみながら、心のどこかで他選手のミスを願うしか手はない。アニメの中では自分の演技終了後も「ダバーイ!」と次の滑走者にエールを送っていますけれども、その言葉に嘘がないのは確かなんですよ、それは純粋なエールなんです、複雑なんですが、でもやっぱり、この人がうまくやってしまったら自分は表彰台に上がれない、そんな気持ちがあると思う。チームスポーツだとまた様相は変わってくる。足を引っ張ってはならないとかレギュラー選抜とか違うプレッシャーがありますが、基本的に個人競技の圧倒的孤独とは性質が違うでしょう。基本的にたった一人で、近しい人の期待や地元・自国の期待やコーチの評価(特にコーチの知名度の高い今シーズンの勇利はこの傾向が強い)を、背負っているわけですから。

それからオタベック・アルティン、彼が数年来の憧れの人であるユーリ・プリセツキーに対して抱く感情は結構複雑なものなんじゃないでしょうか。ファンブックにも少し言及がありそれは確信に変わったのですが、やはり彼は単純に憧れているだけではない。単純に、憧れの人と友達になりたくて、ユリオに声を掛けたわけではない。そこには紛れもなく天才に対する凡才の嫉妬(この辺りについてはモブサイコについての記事でも少し言及)があるんです。ノービスで初めてユーリを見たオタベック少年は天才と自分との間に横たわる越えられない壁を目の当たりにして、自分を否定されたような衝撃はきっとその後もずっと尾を引いていて、自分の資質では彼にはなれないことが解ったからこそ意識的にその対極の道を見付けたわけですよね。ここなんですよ、わざわざユーリとは真逆を自分の勝利の可能性として突き進むという、ここにオタベックのユリオに対する感情のあり方が窺える。
例えば逆に勝生勇利はというと、ヴィクトルに対しライバル心のようなものはまだ1期の時点ではあまりないように思われます。勇利にとって彼は本当に神様なんでしょうね。ずっとヴィクトルの背中を追ってきて、ヴィクトルのようになりたいと無邪気に思っていて、ヴィクトルがコーチになった後も勇利は彼を自分の演技の中にヴィクトルを表れさせようし、それを見る人に示そうとする。GPFでは「ヴィクトル・ニキフォロフの代名詞」とも言われる四回転フリップ、即ち「ヴィクトルと同じ難易度」に挑戦する。ヴィクトルを越えることよりもヴィクトルと一体化し、ヴィクトルとなって踊ることが勇利の今シーズンの目標であったということが言えると思います。だからつまりエロスなんですよね。前編でも少し言及いたしましたが確かに古代ギリシャ哲学でいうところのアンドロギニュス、半身、こういったワードを連想させる、「同一化」を完成とする関係だなと。
というわけでオタベックがレディーにベタ惚れな少女漫画的オタユリもすごくすごく美味しいのですが、やっぱりこのちょっとドロドロした関係は私としては看過できないのです。

まあ勇利がヴィクトルの超克を望んではいないというのも現時点では、ですね。今後選手として対等に鎬を削るであろう彼らの関係に何か変化が起きないとも限らない。勇利はこれからもメキメキと自分のスケートを極めていくのでしょうし年齢から考えても勇利がヴィクトルをいつか凌駕するという可能性は多く残されています。ただ何を持って「越えた」とするかですが。得点云々を言ってもフィギュアスケートは「表現」ですから、ヴィクトルが幼い勇利を魅了したという事実は永久不変ですし、選手ごとに違う魅了の仕方がある。それをよく理解した上で彼らはその競技人生の終わりまで闘っていくのだと思います。

まあこのように、孤独に自らの技術と美を競い合う選手たちの間に流れる、ピリピリと和気藹々しているムードが、好きなんですよね。グッとくる。

話は変わってヴィクトル・ニキフォロフの性質について少し。
この男、「実はめちゃくちゃ努力してる」でも良いんですけども、努力を知らない天才型だと、私は思う。山岸凉子先生の『アラベスク』というバレエ漫画を少し引き合いに出させていただきますが、努力型主人公ノンナちゃんのライバルでラーラちゃんという子が居て、天才型の彼女は世間からちやほやされていたのですがある演目の主役を競い合ってノンナに事実上の敗北を喫したのちサッサとバレエを捨て女優に転向してしまう。「努力をせずに名声を手に入れてきた者は簡単にそれを捨てる」という姿が描かれているのですが、ちょっとヴィクトルと重ねることができるかなと思いました。27歳という、スポーツ選手として危うい年齢で1シーズンまるごと、言ってみれば棒に振ることが、できる男なのです、ヴィクトル・ニキフォロフは。公式ファンブックにも「優秀な選手は必ずしも優秀なコーチではない、ということを描きたかった」という旨が書かれておりましたが、確かにニキフォロフは「努力してもできない人」のことが理解できていないところが特に物語の序盤には窺えるような気がしますね。その「認識の限界」を乗り越えてコーチとして成長していくニキフォロフの物語もこのユーリオンアイス。

けれどもやっぱりヴィクトルも先程天才型に分類してしまったユリオも、どこかで足を傷だらけにして頑張っているんだよな。

ところでどうでもいいんですがこの『アラベスク』ってちょっと「ユーリ!!!」みがあるんですよね。自分の才能のなさを悲観してバレエやめよっかな~と思っていた主人公のもとにソヴィエトの「金の星」イケメンバレリーノ、ユーリ・ミロノフがコーチを買って出る。ヴィクトルに年相応以上の分別と落ち着きを足した感じのハンサムで、髪型もちょっと似てる。主人公のノンナちゃんが段々表現者として女性として成熟していく過程とかも勇利と重なるなあと個人的に感じます。

 

公式ファンブックを拝見したことは何度か触れましたが、そちらを読んでみると自分が思ったこととは少し違ったなとかやっぱりこうだったんだなとか色々な発見があって楽しかったです。原作者の久保ミツロウさんも創作物について真相は受け手の解釈に依っていると思っていた……(けれど視聴者がどこかに真相があると信じるほど作品世界は確立しているのだなあという気付き)と仰っていましたが私の妄想も一つの真相として作品に受容されるのかなあと。それにしてもつくづくそういったメタ的な部分まで狙い込んで作り込まれた作品なのだと思いました。

 2回で終わらせるつもりだったのですが力尽きました。愛が溢れて予想以上に書きたいことが出てきてしまった。ユーリ・プリセツキーについて等まだ語らせていただきたいことが少々ありますので近いうちにまたYOI関連の記事を更新するかもしれません。

岩波文庫、でボーイズラブと美少年を発掘する

「図書館で読めるホモ100選」とかいうものが一時期話題になりましたけれども、中1の夏に始まる私の腐女子歴の中に岩波文庫期というものがありました。時期的には中1の終わりから中2くらいでしょうかね、文字通り岩波文庫の棚を漁ってそれらしいものを探し出し萌えを摂取していた時期です。世界各地の古典が集められている岩波文庫は萌えの宝庫なんです。

今回は岩波書店公式ウェブサイトの解説目録を参考に、私がBLないし美少年的萌えを目当てに読んだ文学(純文学)作品を一言紹介と共にリストアップさせていただこうと思います。既に個別で関連記事を書かせていただいたものはリンクを埋めておきましたのでそちらも是非参照してくださいませ。リンクはこれからも記事の更新に伴い随時追加していくつもりです。

先にお断りさせていただきますがあくまでeikouが個人的に「ボーイズラブ」や「ブロマンス」的印象を受けた作品であり、必ずしも明確に同性愛描写があるものばかりではありません(以下の「ホモ」という評価も以上のような意味)。あと単純に美少年ものも含みます。

リスト
風姿花伝(花伝書)/世阿弥
  元伝説の美少年世阿弥の思考をなぞってると思うと読んでいて興奮する。
葉隠/山本常朝
  男色に関する指南が一部あり。日本の衆道の伝統的あり方が窺える。
ゴッホの手紙
  ヴィンセントと弟テオの関係尊い
●饗宴/プラトンパイドロス/プラトン
  どっちがどうだか忘れてしまいましたが少年愛賛美の部分あり。
旧約聖書 サムエル記
  ダビデ×ヨナタンのブロマンスがあり。
源氏物語/紫式部
  「空蝉」の段で光源氏(17歳)×狙ってる女の弟(ショタ)の添い寝ホモが見られる。とても可愛い。
平家物語
  美少年平敦盛の気高い死に様に泣く敵のおっさん。尊い
東海道中膝栗毛/十返舎一九
  弥次喜多メリバ物語だと思っている。喜多さんは弥次さんの元馴染みの陰間らしい。
高瀬舟/森鴎外
  兄弟愛が悲恋すぎて全俺が泣いた。事実上心中してると思う。
●ウィタ・セクスアリス/森鴎外
  旧制高校の男色文化が垣間見える貴重な資料。
彼岸過迄/夏目漱石
  メインキャラ二人がアダルティーで良い雰囲気。
●こころ/夏目漱石
  言わずもがな。自己評価の低い先生×無邪気に憧れる私という構図と、人間レベルの高いK×それに反感を抱く先生の関係という二重のエロさ。
生れ出づる悩み/有島武郎
  実生活と対立するところの芸術というテーマを媒介に描かれる関係が激エモ。主人公の中年男が、青春に苦悩する青年に眩しさを抱いてる感じがヤバい。
風の又三郎/宮沢賢治
  超少年=自然、に対する畏敬というのがすこぶる賢治らしい。
銀河鉄道の夜/宮沢賢治
  言わずもがなカムパネルラ×ジョバンニ、エモいどころの騒ぎではない。このブロマンスは文字通り次元が違う。
桜の樹の下には/梶井基次郎●Kの昇天/梶井基次郎
  何となく梶井文学は衆道的エロスがある。おそらく死を指向しているから。
蟹工船/小林多喜二
  ホモソーシャルのエネルギーがエロス。ホモレイプ描写あり。
走れメロス/太宰治
  メロスとセリヌンティウスの友情。
駈け込み訴え/太宰治
  イエス・キリスト←ユダの壮絶な愛憎。新約聖書と合わせて観賞したい。
人間失格/太宰治
  主人公の性的虐待とか、繕ったピエロキャラとそれを看破する変な友人とそれに慄く主人公とか。
山月記/中島敦
  温厚で人望厚い袁傪×プライド高めぼっち李徴の関係性がグッド。2人の青春時代の妄想二時創作で軽く単行本出せると思う。李徴が元「紅顔の美少年」というのも地味にポイント高い。
●口ぶえ/折口信夫
  知る人ぞ知るBLという印象。"L(love)"度は有名な堀辰雄の「燃ゆる頬」を軽く越える。
不思議な少年/マーク・トゥエイン
  美少年がペシミズムを振りまいてく話? 真理のメッセンジャーという意味では彼も装置としての超少年というやつでしょう。
●王子と乞食/マーク・トゥエイン
  瓜二つ設定が既にソウルメイト感があって美味しい上にお互いの境遇を求め合うところから話が始まるというのが更に良い。
車輪の下/ヘルマン・ヘッセ
  ギムナジウムもの好きの聖典。というかもとを辿れば日本のBL文化繁栄の一端を担っていると思う(詳しくは後日)。
デミアン/ヘルマン・ヘッセ
  ヘッセは恋愛を介さないホモキスを美しく描く天才。最後まで読むべき。
●トニオ・クレエゲル/トーマス・マン
  ギムナジウムもの。同級生にちょっと恋してる。
ヴェニスに死す/トーマス・マン
  美少年賛美の金字塔にして聖典ですよね。おっさんが少年の美しさに焦がれて身を滅ぼす滑稽なようで切実な話。映画と合わせて観賞したい。
●地獄の季節/アルチュール・ランボー
  天才詩人の早熟な青春時代の痕跡と言える詩集、言わずと知れた詩人ヴェルレーヌとの同性愛関係が燃料の一部となっているであろうことを考えると胸熱。レオナルド・デカプリオ主演の映画『太陽と月に背いて』と共に観賞したい。
恐るべき子供たち/ジャン・コクトー
  一生を通じて精神世界に影を落とすほどの、同級生への無垢な憧れ。萩尾望都先生がコミカライズしていらっしゃるので合わせて観賞したい。
●ルバイヤート/オマル・ハイヤーム
  イスラーム世界における酌係で少年愛の対象ともなる「サーキイ(酒姫)」という存在が一部に歌われる。
●サテュリコン/ペトロニウス
  古代ギリシャの頽廃した性風俗の様子が窺える。美少年奴隷を巡る少年愛描写あり。


※短編の場合は収録図書の書名ではなく、作品そのもののタイトルを示させていただいたので、必ずしも収録図書のタイトルに反映されているものばかりではありません。
※初見以来一度も読み返していないものなどは正直うろ覚えで結構適当な感想が書いてあります。今後個別に記事にすることがあった時はちゃんと復習します……

他にも私の見逃しているものがあれば教えてくださるととても喜びます!(*^▽^*)