少年愛之美学

守備範囲がやや広めの腐女子による鑑賞と思索。思い付いたまま書き散らしている。

「ユーリ!!! on ICE」、とアイデンティティの闘争について〈YOI感想後編〉

ユーリ!!! on ICE」、〈YOI感想後編〉アニメユーリオンアイスの感想後編になります。今回はどちらかというとキャラクターの人間性に踏み込んだ妄想じみた考察を、ことさら筋道を立てずに書き連ねていきます。前編はこちら↓

 

ehirocyanos.hatenablog.com

 

前回、フィギュアスケートの美を競う競技としての性質についてお話させていただきましたけれどもやっぱり「美を競う」、そして「個人競技である」ことによる厳しさから、自己顕示というのも彼らが闘っている重要な原動力の一つなのだろうということを、作品を見返していて個人的によく再確認します。彼らのスケートはピチット君や南君のように「観客を楽しませたい!」という信念や勇利のように「もっとヴィクトルと滑りたい!」という前言語的喜びやユリオのように一家の生活が掛かっているというハングリー精神など様々な動機にも当然支えられていると思うのですが、それと同時に、何というか、自分が自分を示せるのはスケートだけ、というようにアイデンティティのためにしがみついている感じ。自分を成り立たせるために何かにしがみつくという感覚は多くの現代人に共通すると思いますがこのアニメのキャラクターたちにとってそのアイデンティティのよりしろがスケートだったという、おれの方が彼よりももっとうまくやれる、おれの方がもっと美しく踊れる、そんな必死さがある。ようにeikouには感じられるのです。

皆基本的に良い奴らでお互いのことを心から尊敬してるしオフアイスでは一緒に過ごすと心から楽しい良い友達だと思うんですが、各々トップアスリートには或意味当たり前のプライドを持っているし、お互い刺激を受けてるし、自分が表彰台に上がるためにはお互いが(正々堂々、自らの競技スキルによって)蹴落とさなくてはならない相手だと言うことも十分解っている。その上で「負けた! クッソ覚えてろ~」とか敵対心剥き出しとかそういうシンプルな関係ではない(ユーリ・プリセツキーとかいう例外くさいのも居る)。この辺りにリアルさを感じるのです。もっと複雑でいやらしい感じがするんですよね。特にこの作品は高校生の部活ではなくプロの世界ですし成人率が他のスポーツものに比べ高いですから剥き出しにせず押し殺しているものも多いと思う。

そのユーリ・プリセツキーが例外くさいのも、彼が分類で言うと「天才型」であるからでしょうか。どちらかというと「死ぬ気でやらなければ勝てない」選手の方に、よりその必死さが見える気が致します。

例えばクリストフ・ジャコメッティー、彼の性格には女性的な性質が多分にあるように私には感じられます。何をもって女性的といえるのかは曖昧なところですが何となしにネチネチしているところでしょうか。公式ファンブックでも「天才型ではない」ということが明示されていましたが、放っておいても結果が付いてくるヴィクトルとに対し必死扱いて表彰台に上がれたり上がれなかったりのクリスは人一倍張り詰めた思いで試合に向かっているように見えるのです。それでああいうお色気路線のお茶目キャラですからあれで根は真面目なんだな~と思うと胸熱。

同様にピチット・チュラノン、自撮りおばけの時点で既に女子高生なんですけども、彼もクリスに似たところがあると思います。SNS中毒というので既にちょっとした自己顕示欲の塊みたいなところがありますが彼も他の選手に比べスキルが低い(飛べるジャンプが少ない)分自己主張をし続けることができる精神力がエンジンとなっているように見える。

競技の性質上、自分が勝敗を左右できる時間を対戦相手と共有できないというもどかしさがそういう良い意味のいやらしさを自然と培ってしまうのかな、とも。フィギュアスケートの大会に選手として出た経験はないので無論想像の域を脱しませんが、特に先攻(?)は自分の競技が終わった後は、時には取り返しのつかない自らのミスを悔やみながら、心のどこかで他選手のミスを願うしか手はない。アニメの中では自分の演技終了後も「ダバーイ!」と次の滑走者にエールを送っていますけれども、その言葉に嘘がないのは確かなんですよ、それは純粋なエールなんです、複雑なんですが、でもやっぱり、この人がうまくやってしまったら自分は表彰台に上がれない、そんな気持ちがあると思う。チームスポーツだとまた様相は変わってくる。足を引っ張ってはならないとかレギュラーに選抜されなきゃとか違うプレッシャーがありますが、基本的に個人競技の圧倒的孤独とは性質が違うでしょう。基本的にたった一人で、近しい人の期待や地元・自国の期待やコーチの評価(特にコーチの知名度の高い今シーズンの勇利はこの傾向が強い)を、背負っているわけですから。

それからオタベック・アルティン、彼が数年来の憧れの人であるユーリ・プリセツキーに対して抱く感情は結構複雑なものなんじゃないでしょうか。ファンブックにも少し言及がありそれは確信に変わったのですが、やはり彼は単純に憧れているだけではない。単純に、憧れの人と友達になりたくて、ユリオに声を掛けたわけではない。そこには紛れもなく天才に対する凡才の嫉妬(この辺りについてはモブサイコについての記事でも少し言及)があるんです。ノービスで初めてユーリを見たオタベック少年は天才と自分との間に横たわる越えられない壁を目の当たりにして、自分を否定されたような衝撃はきっとその後もずっと尾を引いていて、自分の資質では彼にはなれないことが解ったからこそ意識的にその対極の道を見付けたわけですよね。ここなんですよ、わざわざユーリとは真逆を自分の勝利の可能性として突き進むという、ここにオタベックのユリオに対する感情のあり方が窺える。
例えば逆に勝生勇利はというと、ヴィクトルに対しライバル心のようなものはまだ1期の時点ではあまりないように思われます。勇利にとって彼は本当に神様なんでしょうね。ずっとヴィクトルの背中を追ってきて、ヴィクトルのようになりたいと無邪気に思っていて、ヴィクトルがコーチになった後も勇利は彼を自分の演技の中にヴィクトルを表れさせようし、それを見る人に示そうとする。GPFでは「ヴィクトル・ニキフォロフの代名詞」とも言われる四回転フリップ、即ち「ヴィクトルと同じ難易度」に挑戦する。ヴィクトルを越えることよりもヴィクトルと一体化し、ヴィクトルとなって踊ることが勇利の今シーズンの目標であったということが言えると思います。だからつまりエロスなんですよね。前編でも少し言及いたしましたが確かに古代ギリシャ哲学でいうところのアンドロギニュス、半身、こういったワードを連想させる、「同一化」を完成とする関係だなと。
というわけでオタベックがレディーにベタ惚れな少女漫画的オタユリもすごくすごく美味しいのですが、やっぱりこのちょっとドロドロした関係は私としては看過できないのです。

まあ勇利がヴィクトルの超克を望んではいないというのも現時点では、ですね。今後選手として対等に鎬を削るであろう彼らの関係に何か変化が起きないとも限らない。勇利はこれからもメキメキと自分のスケートを極めていくのでしょうし年齢から考えても勇利がヴィクトルをいつか凌駕するという可能性は多く残されています。ただ何を持って「越えた」とするかです。得点云々を言ってもフィギュアスケートは「表現」ですから、ヴィクトルが幼い勇利を魅了したという事実は永久不変ですし、選手ごとに違う魅了の仕方がある。それをよく理解した上で彼らはその競技人生の終わりまで闘っていくのだと思います。

まあこのように、孤独に自らの技術と美を競い合う選手たちの間に流れる、ピリピリと和気藹々しているムードが、好きなんですよね。グッとくる。

話は変わってヴィクトル・ニキフォロフの性質について少し。
この男、「実はめちゃくちゃ努力してる」でも良いんですけども、努力を知らない天才型だと、私は思う。山岸凉子先生の『アラベスク』というバレエ漫画を少し引き合いに出させていただきますが、努力型主人公ノンナちゃんのライバルでラーラちゃんという子が居て、天才型の彼女は世間からちやほやされていたのですが主役を競い合ってノンナに事実上の敗北を喫したのちサッサとバレエを捨て女優に転向してしまう。「努力をせずに名声を手に入れてきた者は簡単にそれを捨てる」という姿が描かれているのですが、ちょっとヴィクトルと重ねることができるかなと思いました。27歳という、スポーツ選手として危うい年齢で1シーズンまるごと、言ってみれば棒に振ることが、できる男なのです、ヴィクトル・ニキフォロフは。公式ファンブックにも「優秀な選手は必ずしも優秀なコーチではない、ということを描きたかった」という旨が書かれておりましたが、確かにニキフォロフは「努力してもできない人」のことが理解できていないところが特に物語の序盤には窺えるような気がしますね。その「認識の限界」を乗り越えてコーチとして成長していくニキフォロフの物語もこのユーリオンアイス。

けれどもやっぱりヴィクトルも先程天才型に分類してしまったユリオも、どこかで足を傷だらけにして頑張っているんだよな。

ところでどうでもいいんですがこの『アラベスク』ってちょっと「ユーリ!!!」みがあるんですよね。自分の才能のなさを悲観してバレエやめよっかな~と思っていた主人公のもとにソヴィエトの「金の星」イケメンバレリーノ、ユーリ・ミロノフがコーチを買って出る。ヴィクトルに年相応以上の分別と落ち着きを足した感じのハンサムで、髪型もちょっと似てる。主人公のノンナちゃんが段々表現者として女性として成熟していく過程とかも勇利と重なるなあと個人的に感じます。

公式ファンブックを拝見したことは何度か触れましたが、そちらを読んでみると自分が思ったこととは少し違ったなとかやっぱりこうだったんだなとか色々な発見があって楽しかったです。原作者の久保ミツロウさんも創作物について真相は受け手の解釈に依っていると思っていた……(けれど視聴者がどこかに真相があると信じるほど作品世界は確立しているのだなあという気付き)と仰っていましたが私の妄想も一つの真相として作品に受容されるのかなあと。それにしてもつくづくそういったメタ的な部分まで狙い込んで作り込まれた作品なのだと思いました。

 2回で終わらせるつもりだったのですが力尽きました。愛が溢れて予想以上に書きたいことが出てきてしまった。ユーリ・プリセツキーについて等まだ語らせていただきたいことが少々ありますので近いうちにまたYOI関連の記事を更新するかもしれません。

岩波文庫、でボーイズラブと美少年を発掘する

「図書館で読めるホモ100選」とかいうものが一時期話題になりましたけれども、中1の夏に始まる私の腐女子歴の中に岩波文庫期というものがありました。時期的には中1の終わりから中2くらいでしょうかね、文字通り岩波文庫の棚を漁ってそれらしいものを探し出し萌えを摂取していた時期です。世界各地の古典が集められている岩波文庫は萌えの宝庫なんです。

今回は岩波書店公式ウェブサイトの解説目録を参考に、私がBLないし美少年的萌えを目当てに読んだ文学(純文学)作品を一言紹介と共にリストアップさせていただこうと思います。既に個別で関連記事を書かせていただいたものはリンクを埋めておきましたのでそちらも是非参照してくださいませ。リンクはこれからも記事の更新に伴い随時追加していくつもりです。

先にお断りさせていただきますがあくまでeikouが個人的に「ボーイズラブ」や「ブロマンス」的印象を受けた作品であり、必ずしも明確に同性愛描写があるものばかりではありません(以下の「ホモ」という評価も以上のような意味)。あと単純に美少年ものも含みます。

リスト
風姿花伝(花伝書)/世阿弥
  元伝説の美少年世阿弥の思考をなぞってると思うと読んでいて興奮する。
葉隠/山本常朝
  男色に関する指南が一部あり。日本の衆道の伝統的あり方が窺える。
ゴッホの手紙
  ヴィンセントと弟テオの関係尊い
●饗宴/プラトンパイドロス/プラトン
  どっちがどうだか忘れてしまいましたが少年愛賛美の部分あり。
旧約聖書 サムエル記
  ダビデ×ヨナタンのブロマンスがあり。
源氏物語/紫式部
  「空蝉」の段で光源氏(17歳)×狙ってる女の弟(ショタ)の添い寝ホモが見られる。とても可愛い。
平家物語
  美少年平敦盛の気高い死に様に泣く敵のおっさん。尊い
東海道中膝栗毛/十返舎一九
  弥次喜多メリバ物語だと思っている。喜多さんは弥次さんの元馴染みの陰間らしい。
高瀬舟/森鴎外
  兄弟愛が悲恋すぎて全俺が泣いた。事実上心中してると思う。
●ウィタ・セクスアリス/森鴎外
  旧制高校の男色文化が垣間見える貴重な資料。
彼岸過迄/夏目漱石
  メインキャラ二人がアダルティーで良い雰囲気。
●こころ/夏目漱石
  言わずもがな。自己評価の低い先生×無邪気に憧れる私という構図と、人間レベルの高いK×それに反感を抱く先生の関係という二重のエロさ。
生れ出づる悩み/有島武郎
  実生活と対立するところの芸術というテーマを媒介に描かれる関係が激エモ。主人公の中年男が、青春に苦悩する青年に眩しさを抱いてる感じがヤバい。
風の又三郎/宮沢賢治
  超少年=自然、に対する畏敬というのがすこぶる賢治らしい。
銀河鉄道の夜/宮沢賢治
  言わずもがなカムパネルラ×ジョバンニ、エモいどころの騒ぎではない。このブロマンスは文字通り次元が違う。
桜の樹の下には/梶井基次郎●Kの昇天/梶井基次郎
  何となく梶井文学は衆道的エロスがある。おそらく死を指向しているから。
蟹工船/小林多喜二
  ホモソーシャルのエネルギーがエロス。ホモレイプ描写あり。
走れメロス/太宰治
  メロスとセリヌンティウスの友情。
駈け込み訴え/太宰治
  イエス・キリスト←ユダの壮絶な愛憎。新約聖書と合わせて観賞したい。
人間失格/太宰治
  主人公の性的虐待とか、繕ったピエロキャラとそれを看破する変な友人とそれに慄く主人公とか。
山月記/中島敦
  温厚で人望厚い袁傪×プライド高めぼっち李徴の関係性がグッド。2人の青春時代の妄想二時創作で軽く単行本出せると思う。李徴が元「紅顔の美少年」というのも地味にポイント高い。
●口ぶえ/折口信夫
  知る人ぞ知るBLという印象。"L(love)"度は有名な堀辰雄の「燃ゆる頬」を軽く越える。
不思議な少年/マーク・トゥエイン
  美少年がペシミズムを振りまいてく話? 真理のメッセンジャーという意味では彼も装置としての超少年というやつでしょう。
●王子と乞食/マーク・トゥエイン
  瓜二つ設定が既にソウルメイト感があって美味しい上にお互いの境遇を求め合うところから話が始まるというのが更に良い。
車輪の下/ヘルマン・ヘッセ
  ギムナジウムもの好きの聖典。というかもとを辿れば日本のBL文化繁栄の一端を担っていると思う(詳しくは後日)。
デミアン/ヘルマン・ヘッセ
  ヘッセは恋愛を介さないホモキスを美しく描く天才。最後まで読むべき。
●トニオ・クレエゲル/トーマス・マン
  ギムナジウムもの。同級生にちょっと恋してる。
ヴェニスに死す/トーマス・マン
  美少年賛美の金字塔にして聖典ですよね。おっさんが少年の美しさに焦がれて身を滅ぼす滑稽なようで切実な話。映画と合わせて観賞したい。
●地獄の季節/アルチュール・ランボー
  天才詩人の早熟な青春時代の痕跡と言える詩集、言わずと知れた詩人ヴェルレーヌとの同性愛関係が燃料の一部となっているであろうことを考えると胸熱。レオナルド・デカプリオ主演の映画『太陽と月に背いて』と共に観賞したい。
恐るべき子供たち/ジャン・コクトー
  一生を通じて精神世界に影を落とすほどの、同級生への無垢な憧れ。萩尾望都先生がコミカライズしていらっしゃるので合わせて観賞したい。
●ルバイヤート/オマル・ハイヤーム
  イスラーム世界における酌係で少年愛の対象ともなる「サーキイ(酒姫)」という存在が一部に歌われる。
●サテュリコン/ペトロニウス
  古代ギリシャの頽廃した性風俗の様子が窺える。美少年奴隷を巡る少年愛描写あり。


※短編の場合は収録図書の書名ではなく、作品そのもののタイトルを示させていただいたので、必ずしも収録図書のタイトルに反映されているものばかりではありません。
※初見以来一度も読み返していないものなどは正直うろ覚えで結構適当な感想が書いてあります。今後個別に記事にすることがあった時はちゃんと復習します……

他にも私の見逃しているものがあれば教えてくださるととても喜びます!(*^▽^*)

「ユーリ!!! on ICE」、男性美消費ルネサンスとゲイ承認について〈YOI感想前編〉

ジェンダー論とかホモアニメとかそんなんじゃねえもっと深い愛を描いたうんたら、など様々な議論が成されているアニメですが、eikouはポジティブ腐女子なのでたいていの話には「なるほど。」となってしまうタイプですけれども、個人的にこのアニメの客観的テーマというか意義というかについての思いがあるので、今回〈前編〉ではそれについて、また後日〈後編〉で普通に作品に関する萌え語りを、させていただきたいと思います。初めに立場をはっきりさせていただきますが、原作は全て視聴済み、大ファン! であり、その上で腐った目で見ています(BL作品として楽しんでいる)ので、読むにあたってご理解願います。

公式が本格スケートアニメを謳っていることに対して批判的な人が一定数いるようです。批判の仕方としては、スポーツの側面よりも心理描写に重点があるのでスポーツアニメというよりはヒューマンドラマである。というのが、私が見かけた中では好意的なもので、もう少し攻撃的なものもある。気持ちが解らないでもありません、スケートアニメという意味では全く必要のないボーイズラブ的サービスシーンが多々ありますから競技のファンの人かつ/またはBLに親しんでいない人の中には理解し難かったり不快に思った方もいらっしゃるのでしょう。
しかし私からするとそういった批判は実に甘い! この作品を正当に批判できていないと、思ってしまうのです。まあ勿論ファンなのでだいぶ贔屓目です。

結論を言いますと私の考えるこの「ユーリ!!! on ICE」のテーマは「男性のエロス」なのでは、と思っています。平たく言って「男の色気」。製作者の方々がそうお考えになっていたかは無論存じ上げませんが、受け手として受け取るべきテーマはこれなんじゃないかと、受け手として、考えたのです。
例えばこれまで某水泳アニメ「Free!!」のような男性の肉体美を全面に押し出したアニメ作品はありましたが、たいていはスポーツを通した少年たちの絆や青春など、別のテーマがあった上でサービスとして肉体美や男の子同士の心身の交流(笑)が挟まれていたに過ぎない、一方この「ユーリ!!! on ICE」においては男性の肉体の(性的)魅力と男性同士の心身の交流そのものが重要なテーマであるとeikouは考えます。

フィギュアスケートという競技は、私は元々スケオタではないので余り詳しいわけではないのですけれども、採点に演技構成点という要素を含むらしい。これは所謂「技術点」に対する「芸術点」なのでしょうが、少し調べたところによるとどうやら、いかに観客の心を打つかということがジャッジされているわけでもなく、いかに空間を活用し均整の取れた演技をしているかという性質のものであるようですね。
ジャッジに関することを知識の浅いうちにここで根拠に用いてしまうと誤りがあった際に全ての話の説得力を失ってしまうわけですが、だとしても少なくとも多くの観客にとっては、男子フィギュアスケートとは試合というスポーツ一般の価値である闘争的高揚感よりも多分に男性の作り出す「美しさ」を消費するエンターテイメントであることは間違いないのではないでしょうか。
いずれにせよこの競技は、男性が審美の対象になりうる、美しさ≒性的魅力を価値として消費されうるということの象徴だと、私は思うのです。男性が美しさを売る産業は他にもバレエやモデルやアイドルなど(俳優なども勿論そうですがおそらくあれは美よりも演技力を商品とする側面も多分にある)色々ありますれども、フィギュアスケートもそのうちの一つであります。「男性美の消費」意識は、私の印象としては江戸時代くらいまでには結構な高揚を見せ、西洋文明の需要とともに一時衰退・停滞し、現代またルネサンスを見せている、その流れの中で生まれた文化作品の一つとしてこのアニメが生まれた、そういったものを私は感じました。

誤解を与えてしまうと申し訳ないので少し詳しく申し上げますと、別にフィギュアスケート選手は性的存在として視姦されるべきなどということが言いたいのではなく、それは一般的認識でもないでしょう。ここで敢えて「美しさ≒性的魅力」と申し上げる理由というのは、人間の美というのが性的魅力と密接に関わるという一般論も根拠の一つですが、他にも私がこのブログのテーマとする「A感覚」の概念が関わってきます。つまりそういう意味ではここで言う「性的魅力がある」とは「A感覚を保有している」=「真理と接続している」という意味であり、ここで言う「美しさ」とは究極的に「完全である」「完全な均衡を持っている」=「真理(イデア)と一致している」、そういう美しさであり、フィギュアスケートが競技として目標とする芸術が一応この「完全さ」であることから、このように表現させていただいているわけです。作中の選手たちはフェロモンを撒き散らす美男子も多くファンの女性などから「P(A=”anus”に対応して"penis")的」憧憬、分かりやすく申し上げると「抱かれたい男」といった意味での切望を受けていることも多々あるようですが、彼らが表現者として氷上で目指す競技としての芸術は、個人差はあれど、この「A的」完成、なのだと思います。この辺りのAとかPとかについては詳細は後日別の記事で書く予定ですが差し詰め当ブログの他の記事も一緒に読んでいただけると理解も深まるかな……と……それか稲垣足穂氏の「A感覚とV感覚」をお読みになってください。大体そこに基づいています。
いずれにせよこういった真理的・宇宙的エロスを、エンターテイメントとして作品を視聴する受け手に対し分かりやすく示しているものが、この作品における男性美描写の一つの働きであるのではないでしょうか。

男性美描写の必要性は解った、ではなぜ「BL」なのか。それはこのA感覚というのが生殖とは異なった意味を持つ性感(感動、恍惚)であることをこれまた解りやすく、示しているのです。「男の僕でも妊娠してしまいそうなエロス!」のセリフがその極みでしょう。

こういうわけで、ユーリオンアイスにおけるBL的描写は、ビジネス戦略としての「腐媚び」の意味に加え、それが作品としてこの世に現れる必然性たる、作品のテーマそのもの、であるとeikouは考えています。(※製作者様の意図とは関係ありませんよ!)そしてこのことは、ルールや試合形式の解説・競技の描写をしっかりと取り入れているという意味での「本格スケートアニメ」の名を否定するものではなく、したがってこのユーリオンアイスは「本格スケートアニメかつホモアニメ」なのだというのが一ファンとしてのeikouの見解です。


またテーマは「愛」だ! という意見にも一理あります。タイトルにある(=作品の核心である)2人の「ユーリ」の各々のキーワードが「エロス」と「アガペー」であること、また作品のキーワードである「二つのL=loveとlife」、何より師弟と中心とする登場人物たちの絆の深め方などから鑑みてもこれは確かに言えます。エロスとアガペーに対応するであろう恋と愛についてはこちらで以前書きましたが(ヴィクトルに憧れて自らの中に彼を表出させることを目指した)勝生勇利と(ひたすら受容する愛を理解しながら孤高の美を目指す)ユーリ・プリセツキーはこうして各々が掴んだ違う方向性でこれからも競技生活を続けていくのかな、など考えると胸熱。


それから作品の社会的意義として、同性愛の承認の拡大に一役買っているのでは、というのにも賛成です。
世界各国の選手が登場するなど国際的なつくりになっていることから海外の方々の中にもこのアニメに親しみを持たれる方がいらっしゃるように見えますけれども、私の印象だと作品のメインキャラであるヴィクトル・ニキフォロフの出身ロシアでは同性愛宣伝禁止法をはじめとしてゲイフォビアの風潮が強いのかなと感じますし(参考→【LGBT】ロシアの同性カップルが抱える闇とは 世界報道写真の大賞(画像集)、アクセス日170613)他国でも勿論日本でもそういった傾向はどうやら稀ではないようですが、この作品が国際的に受け入れられることでゲイ的なものへの認知や好感が広がると個人的には嬉しい。とか言うとお前どの立場なんだと言われてしまうかも知れませんが単純にほっこりする。作中で実際に登場人物の中に公式設定のゲイが居るとか同性愛関係があるとかいうわけではないので「BLっぽい」の範疇を越えないという見方もできますけれども、教会の前で指輪交換なんてもう証拠十分ですよ。十分男性同士の恋愛・結婚を想起させますからね。良いぞもっとやれ。それに(フィクションの)BLと(現実の)ゲイが相容れないというのは私は違うかなと思います。少なくとも私に関して言えば、自分はヘテロだがBLが好きだからホモが好きで、他人がヘテロだろうがホモだろうがどうでもいいという立場に立てている。少なくともこの話題において他人を徒に否定するような負の感情を自分は巻き散らしてはいないと思っている、或いはそうしないよう気を付けている。こういった、数直線で言うところの「0以上」の評価の積み重ねが、全ての人が幸せに生きられる世界を作ると私は思っている。そういう意味ではこの作品を通してゲイ的事象全体に対し0以上の評価を与える人が増えれば、この作品はその方面で成功した、良い意味を持った、ということになるとeikouは思う。


eikouの考えるアニメ「ユーリ!!! on ICE」の意義は目下こんなところです。いやもうほんとすこ。劇場版楽しみ。ありがとうございます。
また近々〈後編〉を更新させていただきます。次は概ね「ユーリオンアイスのここがエモい!」みたいな萌え語りになるかと思います。

ehirocyanos.hatenablog.com
(170625更新)

平沢進、で音楽のエロスと起源に想いを馳せる

今週のお題「私の沼」を使わせていただきます。今回の記事はいつにも勝り個人的な感想です。
こんなブログを書いている人間なので人生最大の沼は無論「ホモ」なんですが、最近急速に沈められている沼が平沢進なんですよね。平沢進さんは1970年代から現在まで活動されているミュージシャンで、方向性としてはテクノポップ、有名な曲だと筒井康隆原作今敏監督のアニメ映画「パプリカ」の主題歌『白虎野の娘』等でしょうか。平沢さんは最初P-MODELというバンドでメジャーデビューされたそうですがそちらのほうはまだ私は開拓できていないので、今回は主にソロ活動時代の曲について語らせていただきます。

どうでもいいんですけど私が歌を好きになるプロセスって歌詞→曲というパターンが多くて、まあ「認知」自体は曲そのものが先立つことが言うまでもなく多いのですが「好きになる」には歌詞が決定的要因だったりして、まあどうでもいいんですけど、どんな歌詞がeikouの好みなのかというと、デザイン性重視の歌詞が好きなんですよね。表面上意味がないというか、色合いの合う感じの単語を連ねるみたいな。思い付いた言葉を連ねた脈絡のない文体が散文と詩の相違だといった西脇順三郎(シュルレアリスム詩人)の創作技法といった感じ。「愛してる」とか「勇気出せ」みたいにメッセージに音を付けた感じの、方向性のしっかりしている歌詞はあまり好みではないのです、例外が無いわけではないですが。音楽は大好きなのでまだ他の機会にも書かせていただきたいと思います。

で、平沢進さんの曲って、私の印象だと、噛めば噛むほど味が出るタイプだと思っていて、上の通り私は歌詞を見てから、よし、この曲をちゃんと聴いてみようという観賞の過程を踏む人間でありますから、初めて曲聴いてみたらすごく違和感を感じましたし何だか私が入っていい世界と違うかなという感じがしていたのですけれど、このアーティストさんは絶対好きになると歌詞を見て解っていたので何回か流しているうちに、いつの間にかドボンしていた。これ、即ち聴けば聴くほどいつの間にかとらわれている理由というのは、平沢ミュージックの独特の音階にあると思うのですが、つまりこの方の使われている音階って今大衆的とされているヨーロッパ由来のものではないものが多く含まれているようで(あまり音楽理論については詳しくないのですが)どちらかというとアジア・アフリカの民族音楽のような、西洋音階にすっかり親しんできた日本人にとって聴いてて気持ちの悪い異質な音階が多い。けれども耳が次第に慣れてきて、知らないうちにしっくりきているし、その頃にはこの母胎回帰的なえもいわれぬ心地よさを誘うトランス感覚の住人になっているのです。平沢さんの音楽を聴いて初めて聴いたのにどこか懐かしいと感じる人は多いみたいですがこれも音階の作用でしょうね。

こういった平沢ミュージックの呪術的・原始的なサウンドは、元来人間にとって歌とは、音楽とは何であったか? という問まで聴く人を引き戻し、鳥は主に求愛のために囀りますが人間が初めに意図的に作ろうとした音楽とは果たしてラブソングだったのでしょうか、宗教的・呪術的意味から音楽は発生したという説は現在eikouが一番好きな説です。例えば賛美歌・聖歌といったキリスト教音楽は解りやすい例だと思います。人知を越えたものと意志疎通を図るための切迫した信号が、音楽だとしたら? そこに、宇宙と接続した性感であるところのA感覚(詳しくはこちら)があるんですよね。これがつまるところ、私が音楽にエロスを感じる理由であり、平沢ミュージックの沼に引き込まれてしまった個人的理由でもあります。

今回は軽めに終わります。
まだまだ俄かなのでこれからたくさん聴いていきたい。

ところで平沢進の歌詞にある「テクノの娘」「囚われの娘」等の「娘」は霊力向上のため女装したシャーマン少年だと思っています。完全に個人的趣味。(170614追記)

太宰治「駈込み訴え」、とイエス×ユダの愛憎入り乱れる信仰系ホモについて

太宰治の短編小説「駈込み訴え」についての記事です。宗教的冒涜の意志はありませんので「地雷です!!」は受け付けませんが解釈違いの主張は受け付けたいと思います。
太宰の小説は饒舌体などと言われますけれどもこの小説はある人物による語りの形式をとった小説で主人公については最後に種明かしとなるんですが、解る人には序盤で解りますし解らない人には聞いても解らないと思うのでいきなりネタバレします。主人公はあのイスカリオテのユダです。ユダとは、キリスト教聖典である『新約聖書』の記述によれば当時危険思想家としてローマ政府から目を付けれられていたイエス・キリストの居場所を密告し、彼が逮捕され十字架刑に処される、所謂キリストの受難のきっかけを作った人であり、ユダはイエスとその弟子たちの一行の一員で金銭管理を担当していたのですが最終的に自分がローマ政府にイエスを売ったことを過ちと気づき報酬の銀貨を投げ捨てて首吊り自殺をしたと言われていて、現在でも裏切り者の代名詞とされる人物です。この小説は、このユダが、今まさにイエスのことを恐らく役人に、訴えている場面を描いているんですが、その内容がもうただのノロケなんですよね。
というわけで今回の「神様系ホモ」は相手がガチの神です。正確にはイエスはメシア即ち救世主なんですけれども、三位一体というものがありまして、こちらについては今回は詳しく触れませんが、まあ神です。

本文を読むとお解りになると思いますが作中で吐露されているユダの激情を一言で表すと「イエスに対する入り乱れた愛憎」。嗚呼あの人が憎い、傲慢で自惚れ屋でロクデナシだ、と散々ディスっているかと思いきや、嗚呼私はあの人が居ないと生きてゆけない、美しいあの人を愛しているのです、と惚気始めたと思いきや、あの人が憎い、私を虐め抜いてプライドを傷付けて~! とディスる、の繰り返し。愛憎は表裏一体と言いますがそれがひしひしと伝わってきます。で結局どっちなんだよ、となるんですが実際どっちもなんだと思います。詳しくは後程。

エス×ユダの話についてはこの「駆込み訴え」以外にも古今東西たくさんの二次創作があって、もはや「公式だったか二次創作だったか思い出せない腐女子の顔」なんですけれども、「ユダはイエスを憎しむと同時に愛していた、愛すと同時に憎んでいた」というのは王道解釈の一つのように個人的には感じられます。
しかし私も公式には誠実でありたいので、ちゃんと原作(聖書)に立ち返りましょう。そもそも新約聖書というのはクリスチャン以外には敬遠されがちな書物なのかなと思うのですが、その原因としてまず第一に興味がないというのは大きいと思いますけども、無関心ではなく反発の一因としてはイエスの(過剰な)神格化の描写という要素があると思うのです。これはキリスト教自体への反発・疑念と共通するんでしょうけれども、現代の大科学時代に聖書物語の中の奇跡やら神やら復活やらといったことがなかなか受け入れがたいのは仕方がない。それらの現代的解釈についてはまた別の話ですから次の機会に遅らせていただきたいのですが少なくとも救世主とされるイエスについての超人的な描写によって「こんなんをガチで信じてるやつが居るなんてありえん」と聖書ごと或いはキリスト教ごと一蹴してしまう人も、特に日本には、多い気がします。そもそも神や宗教の存在に批判的な人は多い。
新約聖書』においてイエスがどういった扱いを受けているかといいますと、やっぱり盲人を治癒したり死者を生き返らせたり様々な奇跡を起こしてフォロワーを増やしていく超能力者で、人間の罪を贖ってくれる尊いお方……のような感じで、こんな人が実在したのだと言われれてしまうと胡散臭さが拭えません。

けれどもこれらははっきり言ってどうでもいい。例えば「一個のパンと二匹の魚で何千人もの人が満腹に」という奇跡譚に対し「一人が分け与えたことで他の人々も自分のためだけにとっておいた食料を隣人とシェアし始めたから」という解釈を付けるように、エピソードに逐一科学的解釈を付けることはそれはそれで意味がありますけれども、生き方や気持ちの持ち方の指針として聖書を読む・キリスト教の思想を理解しようとする際には寓話の中の、主旨をこそ理解しようとするべきじゃないでしょうか。その一つの方法として、「人としてのイエス」という側面にもう少し目を向けても良いのではとeikouは思っています。実際イエスは受難を恐れ「助けてくれ~」と懇願したり、自らの死に対して、まあ俺はメシアだからな、と泰然と構えているわけでは決してなく、怯えている様子が見て取れますし、神殿で商売やっている人にキレてチャブ台返しをするような人だから、まああれはパフォーマンスなんだか解りませんけど、もともと意外と気持の乱高下がある人だと思う。
聖人ではないイエス像としてeikouの見立てはこうです。恐ろしく頭が良い(事実幼少期には神童と呼ばれていたらしい)けれど、性格に少々難あり、言ってることがコロコロ変わったり人当たりがキツかったりする、でもそれらをカバーしてしまうカリスマ性があり人望がある人物。そういったイエスという人に、ユダは振り回されているのですが、思想家としてのイエスはやはり無双の天才である。ユダも少年期には地元で秀才と呼ばれブイブイ言わせてたりしたのかもしれません。いや、知りませんけど。でも自分の敵わない圧倒的才能・魅力に対し、憧れと尊敬と同時に、憎しみと劣等感を抱いてもおかしくはない。だから「駈込み訴え」にあるような複雑な感情が生まれてしまう。やっぱり私って「攻めに嫉妬して消えてほしいくらい憎んでるけど結局攻めが大好きな受け」が好きなんだなあとつくづく。
こういったイエスの人間味や生々しさみたいなものを、「駆込み訴え」はよく描いていて、そういった意味では聖書の解釈書の一つとして成功していると言えるわけです。

それ以前にイエス×ユダに関しては公式で最大の爆弾が落とされていて、それが「ユダの接吻」なんですよね。ルネサンスの画家ジョットの作品にこのときの様子を描いた絵画がありますが、ユダが「私が接吻する人がイエスだから、それを目印に捕まえてください」と政府に事前に言っておいて、イエスを引き渡す際に合図としてユダがイエスにキスするのです。俗に言う裏切りの接吻です。胸熱ですね。wiki情報によりますとイタリアマフィアでは組から抜ける際にこれを模した儀式をするとか。ほんとかな。キリスト教の男性同性愛否定についてもどこに対してというわけでもなく色々申し上げたいことございますけれども、それはまあ別の時にして、記述の上では男色を思いっきり否定する聖書ですが実は禁じているのは「鶏姦」即ちアナルセックスを筆頭にした男性同士の性的接触のことであり男性同士の恋愛に関しては特に何も言っていないのでは? とeikouは思っていて、そもそも男性同士のセックスを禁じているところ自体に文句はたらたらありますし(何の立場から言ってるんだ)恋愛と性的接触の相互的関連や恋愛と深い愛情の違いの有無など、問題は山積みですが、ともかく聖書には旧約のダビデヨナタンのブロマンスやイエスと(自称)その最も愛した弟子ヨハネの激しいボディータッチなど、男性間に交わされる深い愛情の描写、っつーか美味しい場面が、意外と散見されるのも事実です。ユダの接吻もその代表例ですが「駈込み訴え」では、最後の晩餐でイエスが「この中に裏切り者が居る。私がパンを渡す人がその人だ」と言ってユダにパンを渡す場面、ここが「ユダの口の中にイエスがパンを押し入れる」ことになっているのです。激エモ。太宰は女たらしのイメージがありますがこのあたり、でかした! という感じです。

太宰については「走れメロス」におけるブロマンスも気になりますね。

吉田秋生『BANANA FISH』、「完全少年への性欲」とブロマンスについて

海街diary』等の吉田秋生先生による長編コミック、ベトナム戦争で使用された化学兵器「バナナフィッシュ」を巡って始まりマフィアや軍、華僑財閥なども巻き込んで壮大に展開するハードボイルドアクションを軸に、NYスラムの最強天才美少年アッシュ・リンクスと傷心渡米の日本人大学生奥村英二の友情が描かれる。

秋生先生の作品はどれも爽やかで、軽妙というのがしっくりくるでしょうか、少女漫画黎明期以降暫くのヨーロッパ志向からは一歩離れてどちらかというとアメリカ映画っぽい感じがしますね、台詞回しなんかに。BL要素があるのは私が読んだものだと『ラヴァーズ・キス』『河よりも長くゆるやかに』あたりかなと思います。『吉祥天女』も読みました、あれはフェミニズムかな?

今回はその吉田先生の『BANANA FISH』について、二つの観点から勝手に鑑賞をしていきたいと思います。

①「神の器」アッシュ
ニューヨークのストリートキッズをやっていたアッシュを児童ポルノの餌食にしたゴルツィネという、マフィアのドンが居て、チンピラのリーダーとして頭角を表してきたアッシュ君に結局メロメロになってしまいマイフェアレディーしようとするのですが、アッシュ君はIQ200超えの強かな頭脳と銃弾戦で絶対死なない運動神経とリヴァー・フェニックスモデル(作者談)の美貌とが3拍子揃った夢の逸材ですからゴルツィネの気持ちもよく解ります。勿論政治経済に通じ優秀なアッシュの利用価値を鑑みての執心であったのでもありましょうけども、読んでみるとこれはやっぱり愛です。愛ですね。アッシュ君への賛美が募った末ゴルツィネは彼を「神の器」と名付けます。

そもそも「神の器」という思想自体が壮大なエロスなんですよというお話、人は皆、全てを持っている絶対的存在即ち「完全少年」に対する狂おしい性欲に苛まれている。というのは持論ですけれどもどういうことかといいますと、アメリカ人心理学者マズローの唱えた欲求5段階説は生理、安全、親和、自我(尊敬)、自己実現の順に高次になってゆく欲求が人間にはあるというものですが、まあアッシュ君の場合「生理」「安全」の部分はちょっと怪しいとしても、端から見れば「自己実現までの全ての欲求を果たした存在」のように見えるわけで、「完全少年」をそういった存在であると定義すれば、完全な(幸福の)状態への渇望は、「生きたい」という初歩的望みから始まって全てを手に入れたい、全ての願望を満たしたい、即ち「完全少年」になりたい、同一化したいと願って彼=完全に満たされた状態と自分との差異に苦悶することであるとも言え、要するに平たく申し上げると、「こいつ何でこんなに頭良いんだ!?」「何でこんなに強いんだ!?」という、常人には理解できない・人智を越えた個体に対する激しい憧れをここでは「完全少年に対する性欲」と呼ばせていただいているわけです。つまり完全少年とはここでは人間の理想、至上の幸福、即ち神性を意味するのですが、それの盛られた装飾的器=美しい肉体、これがアッシュ・リンクスの肉体なんですね。本人はそう思っちゃいないんですが、周りの人間を魅了してしまうカリスマ性がその客観的卓越性を物語っている。
なぜ少年でなければならないのか? というのは一つには私の趣味・主観ですが一つには以前の鳩山郁子さんについての記事の時に申し上げましたが、一言で言うと少年はA感覚を根拠に根源的・宇宙的存在であるからなんですね。
エロいですね。

②魂の呼応、友情、ブロマンス
ブロマンスとはbrotherとromanceから成り立つ単語で男性同士の深い友情(を描いた文芸作品)を意味しますが、ブロマンスとは何故これほどまでに美しいのか? という修辞的疑問が私の人生を苛んでいるのです。BANANA FISHのテーマとも言えるこの「魂の触れ合い」ですけれども、男性同士の絆の中で性欲を保有したものっていうのは現実世界においてもありふれたものであるわけですが、生まれも育ちも違う、互いに赤の他人たる二人が、相手のためならば死をも怖れないというレヴェルまで深く信頼し合い愛し合える、しかもそこには性欲もとい肉体的意味がないというのがeikouには不思議でならんのです。性欲の混入しない恋愛とは存在しうるのか、という問は木原敏江先生の『摩利と新吾』と併せても今後詳しく考えていきたいものですが、さしずめ『BANANA FISH』において英二とアッシュの間にはそれが有る。「ぼくの魂はいつも君とともにある」これは作中で英二からアッシュに向けられた言葉の中にある文言ですが、このエモさに惹かれてしまうのはやはりこの恋愛ではないが死をも担保にできる深い絆という関係性がほとんどファンタジーの領域にあるからなのでしょうか。それこそ『雨月物語』とか明治の文豪の書簡とか、武士道の色がまだ強かった時代にはあったような気もするんですけれど。

言っとくがあいつらの間には性的な関係はいっさいなかった
恋愛に似た感情は…あったかもしれないが
魂の…奥深いところで結び付いていたんだ
 (引用:吉田秋生BANANA FISH ANOTHER STORY』1997年小学館)

この言葉が彼らの関係性の全てを語っていると思います。


まあぐちゃぐちゃ申し上げてまいりましたけどもね、めちゃめちゃ面白いんですよ、言うまでもなく。ハリウッドで実写化してくれないかなあ。それから腐女子的に最も嬉しいのは本作には大量のイケメンキャラが登場し、組み合わせも様々なところで、ハードボイルドと言えど少女漫画なので、さすが秋生先生、緻密な心理描写から様々なベクトルで人間関係が錯綜しているのです。例えば月龍という中国人の美少女美少年が登場するのですが、彼はアッシュを崇拝していてアッシュの右腕になりたいと願うのですけれどもそのポジションは既に英二が占めている。英二への嫉妬、同郷のチンピラ・シンたちとの確執、プライドゆえの月龍の孤独、孤独を埋めるように寄り添う無敵の用心棒ブランカ、彼は実は過去にアッシュと繋がりがあって……等々。時間がある時に読み始めてください、止まらないので。

世阿弥萌え、足利義満×世阿弥と男色から生まれる美意識について

今回は能の話です。伝統芸能の能狂言の能で合ってます。能とは田楽など民間芸能が発展し室町時代観阿弥世阿弥父子が大成された芸能と言われていますが、eikouの中では能に対する萌えというのはまずこの世阿弥さんという方に起因します。

世阿弥さんは日本史の教科書に登場する人物たちの中では天草四郎と列び美少年という伝説を持つ方々の代表格だとeikouは勝手に思っているんですが、というか私の中では蘭丸君などをさしおいて日本史上のベストオブ美少年なんですが、幼少時代の彼はかの連歌師二条良基も称えたという美貌を持っていたとの記録があり、その上御存知の方も多いでしょうが世阿弥君の美しさにやられてしまった殿方の中で最上級のVIPに足利義満が居るんですね。しかも世阿弥が1363年頃生まれ義満が58年ですから約5歳差じゃないですか、出会った当時世阿弥君は11、12ですから義満は16、17ですよね、美味しすぎませんか。こうして当時絶大な権力を誇ったセレブに認められ芸能として保護されたことで俗芸であった猿楽のステータスやグレードは上昇し今日の能の繁栄に繋がったわけですが、山田風太郎の時代小説『婆娑羅』にはこの義満と世阿弥の関係が描かれていまして、これが最高に萌えますのでご興味あれば是非ともお読みいただきたいです。序盤から女体とか美女の描写がキツいところがありますが全てはクライマックスの美少年の絶対的美に至るための前振りですから、二人の美童の折り成す壮絶にして至高のエロスのためにどうか耐えていただきたい。多分にフィクションなんですけれども事実とさして変わらないだろうと願望半分確信半分でeikouは思っています。

要するに義満と世阿弥は性的関係を持ったのか? という問題ですが、持ったんでしょうね。当時芸能人というのは今とは全く異なって却って身分が低かったようですから身売りなどしたやも知れませんし、確固とした基盤を得たかった観世座は可愛い世阿弥君が将軍の目にとまったのをいいことに彼をスケープゴートにして後の「日本国王」たる貴人の保護をもぎとったとしても違和感はありません。ないですよ。全然。

ともかく義満との心身の交流を通して芸術家としての世阿弥が得たものがあったとすればそれは絶大なものであったと思うのです。男色を経たことで世阿弥君は幼い頃から既にA感覚との遭遇を果たしているわけですA感覚の基本定義についてはこちらを参照してください)。


以前別の記事で、物語の中で少年が世界(宇宙)を語る権利を有する理由についてこういったことを書かせていただきました。

  

仮説①、非実在或いは存在が稀有という意味で架空生物である「少年」、すなわち「観念としてのA=anusを自覚的に開放した少年」とは、開放されたAを入口とする世界=宇宙を内包している(口腔から直腸に至る空洞、即ち消化管の文字が「管」たるゆえんは、A感覚の第一の性質である)。 仮説②、古来より刹那性の象徴である(『ヴェニスに死す』等)少年は、ソクラテスのエロス論に基づけば、自分に欠乏するもの=永遠性を渇望し、その切ない憧れとしての「永遠性に対する性欲」こそA感覚=原始的性感と言えるので、何よりも根源的存在である。

鳩山郁子、と架空生物としての少年について - 少年愛之美学

 
この辺りのキーワードに能の芸術性に関連するものが多々あるのですが、つまり「宇宙との接続」「永遠性の渇望」「原始的性感」等ですけれども、それぞれ関連を示すと、

「原始的性感」については室町文化全体の美意識の動きと連動したもので、なぜこの時代この美意識が普及したのかという問題についてはまた社会史なども絡めて考えなければなりませんけれども、差し詰め能という一要素においても、原始的=極限まで削ぎ落とした最小限の表現、転じて簡素な様式美への、「わびさび」等に示される猛烈な愛着こそ、まさきにそれの持つA感覚性の象徴と言えます。

「永遠性の渇望」については世阿弥著の芸能理論書『風姿花伝』に語られています。少年の美しさは移ろいやすく、変声期が訪れたり不安定な柳腰になってきたりしてすぐに枯れてしまう、だから能において追究すべき美は見た目の美しさではなく永久不滅の「花」である……というのが概要であったように虚覚えておりますけれども、裏を返せばそこには永遠性を手に入れることができない人間の悲哀のようなものがあって、それがこの芸術の原動力となっているということなのかなと思います。少年の美しさが武器になることをその経験から承知していた世阿弥君はそれが強制的に奪われることの恐ろしさを若い頃から知っていたのでしょう。
しかし義満の保護がその死まで続いたことからも将軍は世阿弥の美しい要望のみならず能という彼の成した芸術自体を愛していたのだと思います。良きホモ。泣ける。

あと「宇宙との接続」ですが、能の前身たる田楽等の庶民芸能の出自は確かに豊饒を祈る神事であったと言われていることから当初より霊的世界との交信の手段ではあった、ということを考慮に入れてもやはり世阿弥の大成した、主に神や精霊や死者が主人公となる夢幻能は彼岸の世界、観念的宇宙の世界と繋がる芸術なのであり、まさに宇宙との接触感覚を意味するA感覚の存在が窺え、これはやはり世阿弥が、幼少期からの特異な境遇の中で得た感覚なのではないでしょうか。

というように今回は世阿弥の美少年nessと、義満×世阿弥の麗しい少年愛と、そこから生まれた(であろう)能という芸術の美への、萌え語りをさせていただいたわけですが、恥ずかしながらeikouが実際に生の能の舞台を見られたことはまだ数えるほどしかありませんので、今後も機会があれば能楽堂へGOしていきたいなと思います。