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少年愛之美学

平和主義の腐○子による鑑賞と思索。思い付いたまま書き散らしている。

吉田秋生『BANANA FISH』、「完全少年への性欲」とブロマンスについて

海街diary』等の吉田秋生先生による長編コミック、ベトナム戦争で使用された化学兵器「バナナフィッシュ」を巡って始まりマフィアや軍、華僑財閥なども巻き込んで壮大に展開するハードボイルドアクションを軸に、NYスラムの最強天才美少年アッシュ・リンクスと傷心渡米の日本人大学生奥村英二の友情が描かれる。

秋生先生の作品はどれも爽やかで、軽妙というのがしっくりくるでしょうか、少女漫画黎明期以降暫くのヨーロッパ志向からは一歩離れてどちらかというとアメリカ映画っぽい感じがしますね、台詞回しなんかに。BL要素があるのは私が読んだものだと『ラヴァーズ・キス』『河よりも長くゆるやかに』あたりかなと思います。『吉祥天女』も読みました、あれはフェミニズムかな?

今回はその吉田先生の『BANANA FISH』について、二つの観点から勝手に鑑賞をしていきたいと思います。

①「神の器」アッシュ
ニューヨークのストリートキッズをやっていたアッシュを児童ポルノの餌食にしたゴルツィネという、マフィアのドンが居て、チンピラのリーダーとして頭角を表してきたアッシュ君に結局メロメロになってしまいマイフェアレディーしようとするのですが、アッシュ君はIQ200超えの強かな頭脳と銃弾戦で絶対死なない運動神経とリヴァー・フェニックスモデル(作者談)の美貌とが3拍子揃った夢の逸材ですからゴルツィネの気持ちもよく解ります。勿論政治経済に通じ優秀なアッシュの利用価値を鑑みての執心であったのでもありましょうけども、読んでみるとこれはやっぱり愛です。愛ですね。アッシュ君への賛美が募った末ゴルツィネは彼を「神の器」と名付けます。

そもそも「神の器」という思想自体が壮大なエロスなんですよというお話、人は皆、全てを持っている絶対的存在即ち「完全少年」に対する狂おしい性欲に苛まれている。というのは持論ですけれどもどういうことかといいますと、アメリカ人心理学者マズローの唱えた欲求5段階説は生理、安全、親和、自我(尊敬)、自己実現の順に高次になってゆく欲求が人間にはあるというものですが、まあアッシュ君の場合「生理」「安全」の部分はちょっと怪しいとしても、端から見れば「自己実現までの全ての欲求を果たした存在」のように見えるわけで、「完全少年」をそういった存在であると定義すれば、完全な(幸福の)状態への渇望は、「生きたい」という初歩的望みから始まって全てを手に入れたい、全ての願望を満たしたい、即ち「完全少年」になりたい、同一化したいと願って彼=完全に満たされた状態と自分との差異に苦悶することであるとも言え、要するに平たく申し上げると、「こいつ何でこんなに頭良いんだ!?」「何でこんなに強いんだ!?」という、常人には理解できない・人智を越えた個体に対する激しい憧れをここでは「完全少年に対する性欲」と呼ばせていただいているわけです。つまり完全少年とはここでは人間の理想、至上の幸福、即ち神性を意味するのですが、それの盛られた装飾的器=美しい肉体、これがアッシュ・リンクスの肉体なんですね。本人はそう思っちゃいないんですが、周りの人間を魅了してしまうカリスマ性がその客観的卓越性を物語っている。
なぜ少年でなければならないのか? というのは一つには私の趣味・主観ですが一つには以前の鳩山郁子さんについての記事の時に申し上げましたが、一言で言うと少年はA感覚を根拠に根源的・宇宙的存在であるからなんですね。
エロいですね。

②魂の呼応、友情、ブロマンス
ブロマンスとはbrotherとromanceから成り立つ単語で男性同士の深い友情(を描いた文芸作品)を意味しますが、ブロマンスとは何故これほどまでに美しいのか? という修辞的疑問が私の人生を苛んでいるのです。BANANA FISHのテーマとも言えるこの「魂の触れ合い」ですけれども、男性同士の絆の中で性欲を保有したものっていうのは現実世界においてもありふれたものであるわけですが、生まれも育ちも違う、互いに赤の他人たる二人が、相手のためならば死をも怖れないというレヴェルまで深く信頼し合い愛し合える、しかもそこには性欲もとい肉体的意味がないというのがeikouには不思議でならんのです。性欲の混入しない恋愛とは存在しうるのか、という問は木原敏江先生の『摩利と新吾』と併せても今後詳しく考えていきたいものですが、さしずめ『BANANA FISH』において英二とアッシュの間にはそれが有る。「ぼくの魂はいつも君とともにある」これは作中で英二からアッシュに向けられた言葉の中にある文言ですが、このエモさに惹かれてしまうのはやはりこの恋愛ではないが死をも担保にできる深い絆という関係性がほとんどファンタジーの領域にあるからなのでしょうか。それこそ『雨月物語』とか明治の文豪の書簡とか、武士道の色がまだ強かった時代にはあったような気もするんですけれど。

言っとくがあいつらの間には性的な関係はいっさいなかった
恋愛に似た感情は…あったかもしれないが
魂の…奥深いところで結び付いていたんだ
 (引用:吉田秋生BANANA FISH ANOTHER STORY』1997年小学館)

この言葉が彼らの関係性の全てを語っていると思います。


まあぐちゃぐちゃ申し上げてまいりましたけどもね、めちゃめちゃ面白いんですよ、言うまでもなく。ハリウッドで実写化してくれないかなあ。それから腐○子的に最も嬉しいのは本作には大量のイケメンキャラが登場し、組み合わせも様々なところで、ハードボイルドと言えど少女漫画なので、さすが秋生先生、緻密な心理描写から様々なベクトルで人間関係が錯綜しているのです。例えば月龍という中国人の美少女美少年が登場するのですが、彼はアッシュを崇拝していてアッシュの右腕になりたいと願うのですけれどもそのポジションは既に英二が占めている。英二への嫉妬、同郷のチンピラ・シンたちとの確執、プライドゆえの月龍の孤独、孤独を埋めるように寄り添う無敵の用心棒ブランカ、彼は実は過去にアッシュと繋がりがあって……等々。時間がある時に読み始めてください、止まらないので。

世阿弥萌え、足利義満×世阿弥と男色から生まれる美意識について

今回は能の話です。伝統芸能の能狂言の能で合ってます。能とは田楽など民間芸能が発展し室町時代観阿弥世阿弥父子が大成された芸能と言われていますが、eikouの中では能に対する萌えというのはまずこの世阿弥さんという方に起因します。

世阿弥さんは日本史の教科書に登場する人物たちの中では天草四郎と列び美少年という伝説を持つ方々の代表格だとeikouは勝手に思っているんですが、というか私の中では蘭丸君などをさしおいて日本史上のベストオブ美少年なんですが、幼少時代の彼はかの連歌師二条良基も称えたという美貌を持っていたとの記録があり、その上御存知の方も多いでしょうが世阿弥君の美しさにやられてしまった殿方の中で最上級のVIPに足利義満が居るんですね。しかも世阿弥が1363年頃生まれ義満が58年ですから約5歳差じゃないですか、出会った当時世阿弥君は11、12ですから義満は16、17ですよね、美味しすぎませんか。こうして当時絶大な権力を誇ったセレブに認められ芸能として保護されたことで俗芸であった猿楽のステータスやグレードは上昇し今日の能の繁栄に繋がったわけですが、山田風太郎の時代小説『婆娑羅』にはこの義満と世阿弥の関係が描かれていまして、これが最高に萌えますのでご興味あれば是非ともお読みいただきたいです。序盤から女体とか美女の描写がキツいところがありますが全てはクライマックスの美少年の絶対的美に至るための前振りですから、二人の美童の折り成す壮絶にして至高のエロスのためにどうか耐えていただきたい。多分にフィクションなんですけれども事実とさして変わらないだろうと願望半分確信半分でeikouは思っています。

要するに義満と世阿弥は性的関係を持ったのか? という問題ですが、持ったんでしょうね。当時芸能人というのは今とは全く異なって却って身分が低かったようですから身売りなどしたやも知れませんし、確固とした基盤を得たかった観世座は可愛い世阿弥君が将軍の目にとまったのをいいことに彼をスケープゴートにして後の「日本国王」たる貴人の保護をもぎとったとしても違和感はありません。ないですよ。全然。ちゃんと調べたら史料が出てくるんでしょうか。

ともかく義満との心身の交流を通して芸術家としての世阿弥が得たものがあったとすればそれは絶大なものであったと思うのです。男色を経たことで世阿弥君は幼い頃から既にA感覚との遭遇を果たしているわけです(A感覚の基本定義については<a href="http://ehirocyanos.hatenablog.com/entry/2017/04/08/100523">こちらの記事</a>を参照してください)。


以前<a href="http://ehirocyanos.hatenablog.com/entry/2017/04/08/144900">別の記事</a>で、物語の中で少年が世界(宇宙)を語る権利を有する理由についてこういったことを書かせていただきました。


仮説①、非実在或いは存在が稀有という意味で架空生物である「少年」、すなわち「観念としてのA=anusを自覚的に開放した少年」とは、開放されたAを入口とする世界=宇宙を内包している(口腔から直腸に至る空洞、即ち消化管の文字が「管」たるゆえんは、A感覚の第一のな性質である)。
仮説②、古来より刹那性の象徴である(『ヴェニスに死す』等)少年は、ソクラテスのエロス論に基づけば、自分に欠乏するもの=永遠性を渇望し、その切ない憧れとしての「永遠性に対する性欲」こそA感覚=原始的性感と言えるので、何よりも根源的存在である。


この辺りのキーワードに能の芸術性に関連するものが多々あるのですが、つまり「宇宙との接続」「永遠性の渇望」「原始的性感」等ですけれども、それぞれ関連を示すと、

「原始的性感」については室町文化全体の美意識の動きと連動したもので、なぜこの時代この美意識が普及したのかという問題についてはまた社会史なども絡めて考えなければなりませんけれども、差し詰め能という一要素においても、原始的=極限まで削ぎ落とした最小限の表現、転じて簡素な様式美への、「わびさび」等に示される猛烈な愛着こそ、まさきにそれの持つA感覚性の象徴と言えます。

「永遠性の渇望」については世阿弥著の芸能理論書『風姿花伝』に語られています。少年の美しさは移ろいやすく、変声期が訪れたり不安定な柳腰になってきたりしてすぐに枯れてしまう、だから能において追究すべき美は見た目の美しさではなく永久不滅の「花」である……というのが概要であったように虚覚えておりますけれども、裏を返せばそこには永遠性を手に入れることができない人間の悲哀のようなものがあって、それがこの芸術の原動力となっているということなのかなと思います。少年の美しさが武器になることをその経験から承知していた世阿弥君はそれが強制的に奪われることの恐ろしさを若い頃から知っていたのでしょう。
しかし義満の保護がその死まで続いたことからも将軍は世阿弥の美しい要望のみならず能という彼の成した芸術自体を愛していたのだと思います。良きホモ。泣ける。

あと「宇宙との接続」ですが、能の前身たる田楽等の庶民芸能の出自は確かに豊饒を祈る神事であったと言われていることから当初より霊的世界との交信の手段ではあった、ということを考慮に入れてもやはり世阿弥の大成した、主に神や精霊や死者が主人公となる夢幻能は彼岸の世界、観念的宇宙の世界と繋がる芸術なのであり、まさに宇宙との接触感覚を意味するA感覚の存在が窺え、これはやはり世阿弥が、幼少期からの特異な境遇の中で得た感覚なのではないでしょうか。

というように今回は世阿弥の美少年nessと、義満×世阿弥の麗しい少年愛と、そこから生まれた(であろう)能という芸術の美への、萌え語りをさせていただいたわけですが、恥ずかしながらeikouが実際に生の能の舞台を見られたことはまだ数えるほどしかありませんので、今後も機会があれば能楽堂へGOしていきたいなと思います。

ONE『モブサイコ100』、と絶対少年に跪く凡人の生き方と自己実現について

Web漫画の神と称されるONE先生による超能力アクション漫画『モブサイコ100』について、eikouの視点からひたすらプレゼンさせていただく回です。

モブサイコ100』はeikouが好きな漫画作品の中でも遠慮なく万人にお勧めできる健全な少年漫画で、2016年夏にボンズ社でアニメ化も果たし既に相当数の読者を抱えていることは確かなのですが、敬遠されている理由があるといえばやっぱり絵柄だと思うんですよ。ONEさんが『ワンパンマン』の原作者さんでもあるというのはご承知の方も多いでしょうがあちらは村田雄介さという方が作画担当をしていらしてONEさんの絵ではないんですね、一方モブサイコは作画もONEさん自身がされていまして、ONEさんのイラストは良く言えば味がある、ちょっとディスらせていただくと一見下手、なんですが、あーちょっとデッサンが狂っちゃってるなという残念さはなく、もはやごまかそうともしておらず却って芸術として成立している下手さなんですね。ご本人は一応デッサンを気にして自分の手などを見て描いていらっしゃったりするらしいのですが。百聞は一見に如かずなのでとにかく未読の方には、絵柄で食わず嫌いだけはするなと、これだけを申し上げたい。

さて本題、『モブサイコ100』は生まれつきチート的強さの超能力を持つ主人公モブこと影山茂夫君がなんやかやでエスパー仲間と出会ったり人助けをしたり悪のエスパー組織と超能力バトルを繰り広げたりしながら成長するお話で、モブ君の立ち位置としてはとにかくこれまでの作品を通して闘った相手も認める最強のエスパー、けれども超能力を除いたらただの冴えない中学生。
eikou的にモブサイコのテーマは「自己実現」だと思っているのですが、私の印象ではONEさんの創作態度というのは場面毎に割りと文字で言いたいことがあるような感じがあって、例えばモブ君が新興宗教「(笑)」に拉致られて洗脳を受けそうになるというエピソードのところでは、「自分の人生の主役は自分なのだから、周囲と呼応する即ち空気を読むということは本来求められていることではない」というような、現代社会への問題提起とも言える主張が、はっきりと解るように示されています。

メタ視点から申し上げると主人公モブ君はその語りの部分、作者さん自身の正義を担っているようなところがあり、これはまさに鳩山郁子さんについての記事で申し上げた「装置としての少年」と言えると思うんですが、作品の中においては同時に彼は最強の能力を持つ絶対者で、この絶対的能力・(作者を創造主とするとも言える)作品世界の中での絶対性に周囲の人間が屈してゆく、跪いてゆく、それと自らとの差異即ち自らの限界を受け入れてゆく、という構図が全体を通してあるのかなという気が致します。
自分は選ばれし特別な存在だと思っていたのに実はそうでもないんじゃないか、自分はただのモブ、その他大勢、凡人に過ぎないのではないか、そういった自尊心の瓦解みたいなものは、多くの人が通過する人生のイベントのように思いますけれど、この漫画はそれを中学生にやらせるというのが最高にリアルでエロいのです。

それと、キャラクターが控えめに言ってサイコー。可愛い。エモい。
eikouのイチオシがまずモブの弟、律君です。彼は兄と年子で中1なんですが兄と正反対に容姿端麗スポーツ万能秀才コミュ強でさぞかし兄をナメてるんだろうなと思いきや、実は強大な超能力を使える兄貴を畏怖しているのです。可愛いですね。自分はいくら努力してもできないことを兄は何の努力も無しに軽々とやってのけることが許せないという律君ですが超能力を除けば兄弟のステータスの差は一目瞭然、モブ自身もそこを指摘している訳ですが腑に落ちない様子で、むしろそういう天才の無自覚の余裕が律君の焦りを煽っている。というのが象徴的だなと思いました。つまり所謂サイコキネシスのような「超能力」の話をしているんでは多分ないんです、この兄弟の関係性というのは。圧倒的才能を前に凡人は爪を噛むばかり、こういった、自己実現の追求に付き物の厳しさを、中学生、兄弟、といった適切なモチーフを使って描かれているのです。
まあ劣等感とか何だかんだ抱きつつも律君は兄貴を超能力だけでなく人間性の部分も尊敬してるし大好きなんですよ。兄貴がちょっと困ったことになったら飛んでくる有能なセコムです。ほんと可愛いですね……

この劣等感を如何に克服するべきか、というところを担っているのがテル君こと花沢輝気君だと思うんです。ネタバレは避ける方向で行きたいのでざっといきますが、それまで超能力によって順風満帆で無敵の人生を送ってきて自分は特別な存在だという自信を営々と培ってきたテル君は、なんやかやでモブに自らの凡人性に気付かされることになります。

あぁ…
僕って…
凡人…
だったんだなぁ…

(引用元:ONE『モブサイコ100 2巻』2012年小学館)
アイデンティティーの崩壊はテル君をダメにしてしまうのかと思われたのですが彼は強かった、まず自分の絶対性否定する、つまり盲目的自惚れを捨てる、現実を直視して受け入れる。その上で、では自分は何を持っているのかというのを見定める。テル君はモブ君への敗北を認め持ち前の応用力でその後も活躍していきます。とてもかっこいいです。ここにも私達のより良い生き方のヒントがあるのかなと思ったりするのです。

忘れてはいけないのが霊幻新隆です。モブ君の霊能力を利用して除霊を主とする便利屋を営んでいる成人です。作品の中で一番好きなエピソードが霊幻とモブの喧嘩のお話なんですが、またネタバレ回避のため詳しいことは申し上げずにおきますけれども、霊幻の回想シーンがあるんですね、モブが霊幻のもとにやってきた日を霊幻が回想するのですが、最終的に霊幻は自分がモブ君の能力に憧れていたことに気付くのです。エロいですね。自己実現に関するメランコリーというのは甘酸っぱい青春の特権ではない、大人になっても苦々しい。みたいな感じですかね。
霊幻は基本的にスマートな大人の男、を演出しているし或程度は成功していて、そんな彼でさえ自分よりも10歳下のモブ君に(自分のプライドは確保しながらも)跪いている。この構図が最高に萌え。
というかほんとかっこかわいいんですよね、霊幻新隆、博識で冷静でイケメンで斜に構えて見栄っ張りで胡散臭いけど根は善人、モブに慣れ以上の愛着を持っていて律君セコムが発動してしまいますね。

あとモブ君が青春を徒に過ごすモテない自分を変えようとして肉体改造部という筋トレの部活みたいなのに入るのですがその部員たちがまた、見た目はゴリラなんですが内面はめちゃめちゃ良い男たちで。自分達は既に中学生離れした肉体を持ちより高次元の肉体改造に勤しむのですが、中身はアホな中学生ですし、通常未満の運動能力しか持たないモブ君を心身共に温かく支えているのみならず、その根性に心から敬意を払っているという。優しい世界です。という辺りからなんとなくONEさんは基本的に人間が好きなのかなと、人間を信頼してらっしゃるんじゃないかなとeikouは感じています。性善説ですね。

他にもたくさん素敵なキャラが居ますので是非お気に入りを見付けてください。いや単純にストーリーもめっちゃ面白いです。アプリ「マンガワン」で全話無料配信中!結局ハマってコミック全巻買うことになるんですけどね(※個人の感想です)。回し者ではないです。

BL界の鬼才はらだ、とBLの社会的意義について

BL界の鬼才と謳われていらっしゃる現在御活躍中の漫画家さん、はらださんですがまさにその通りだとeikouは思います。今度新刊が出ますね。楽しみです。初めてはらださんの作品をお読みしたのが女性の友人に借りた『やたもも』……かと思っていたのですが実はその前に『銀魂』同人時代の作品を既に呼んでいたらしいというのを後々知ったり。
今回の記事ではeikouから見てはらださんの何が「鬼才」かというプレゼンと、派生して「BLという創作ジャンルの社会的意義」についての考察の一端を語っていきたいと思います。

でははらださんの何が「鬼才」なのか。
①まず濡れ場のデッサン力。はらださんの場合シンプルかつ明確なデッサンは確固たる大前提であり、さらに、これはセクシーだと読者の無意識(本能)に訴える表情や姿勢を見事に操っていらっしゃる。更に「デッサン力」は視覚のみならなず聴覚にも及びます。つまり喘ぎ声です。「阿」と「吽」を適当に連ねれば良いなどというお座なり或いはカムフラージュ的態度ではらださんは喘ぎ声に臨んではいません。どういった音声が押し出されるか、によって人物の内的感覚がより切実に読者に届くのです。「今将に挿入せんとす」「将に逝かんとす」「逝ってるなう」その時々に彼の身体の中では何が起こっているのか。それぞれの瞬間にそれぞれの音声があるのです。笑うところですよ。
御本人がそう意識されているかは存じません、何しろ喘ぎ声とはそれだけで単なるフェティシズム(表現においてはこだわり)となりうるほど協力な要素であるからです。が、結果的にはこういう効果があったと言えます。作家さんの表現力の産物でしょう。

②次に作品の振れ幅ですが、それをよく象徴しているのが短編集『ネガ』『ポジ』でしょう。表題通り前者には少し暗めで後者には明るめの短編が集められていて、この二冊を読むだけでもはらださんという作家さんの振れ幅がよく解ると思います。教師×生徒という社会と愛情による板挟みの関係やフィアンセの死に端を発したストーカーなど人物を救済のない苦悩の中に平然と追い込む一方、自分の性的快感を連動させることで天使を治癒したりしたり感覚は接続したまま股間が取れたりと欲望にのみ忠実なアホ設定に躊躇なく存在を許してしまう。この厳しささとアホさとが絶妙なはらだワールドなのです。
個人的に『ネガ』収録の「ピアスホール」という独白調のお話がめちゃめちゃ好きで、原作でもあるのかと思うくらい(あるのか?)小説チックな作品なのですが、ノベライズしてほしい。というかしたい。

③それから、はらださんはBLという創作ジャンルの価値を牽引する作家さんの一人であるということ。BLでしかできないことをやっていらっしゃるということです。勿論「男性同士の恋愛」というのもBLにしかできないことではありますがそうではなく、BLでしか主張できない真理、というものがある。

以下少し、「BLという創作ジャンルの社会的意義」についてeikouなりの主張をまとめさせていただきます。

男女のエロ漫画や少女漫画を男性同士に置換したものは、即ち単に「受」にVの役割(A=“anus”に対応)を負わせただけのBLはそれ以上の意味を持ちません。「受」「攻」があるのは良いのですが、両者の間にAの意識が流れている作品があって初めて、BLというジャンルに文化史的意義が付与されるように思います。Aの意識とは、ではこの場合において何か? それは「男性の被虐」という意識であるとeikouは考えています。はらださんの作品にはこの意識が明確に現れているような気が致します。
繰り返しますが単にPとVの役割分担的BLはエロ漫画という価値のみを持ちます。これも価値としては十分ですがここに「男性の被虐」という意識を持ち込むことでBLがそれ以上の意味を持って社会に開けてくると思うのです。
どういうことかと言いますと、別の機会にもまた詳しく書こうと思うのですが現代社会において男性は能動的存在、陰と陽で言うと陽的存在なわけで、これをP意識と呼ぶとすると、現代において男性とはP意識を社会から無意識のうちに強制された人間を差す概念であるのです。その「男性」は社会の中でも無意識に自らにPとしての義務、能動的存在たる義務を課しますがこれは自ずと義務のみならず権利をも自らに許すことになり女性への差別・区別意識などにさえ繋がっています。ここで、先日の宗教萌えの記事でも「世界に対する受動性」ということをお話しさせていただきましたが、そういった、Pに支配された男性が自らのA即ち根本的受動的性質、被虐の可能性を自覚したらどうなるか? 理論上、男性はP意識即ち社会的男性としての義務や権利や慣習、言い換えれば男性というジェンダーから解放・追放されるのです。これは本人にとっても周囲にとっても良いことだと思います。

そしてこういったプロセスの引き金となるA意識を保存し絶えず示唆するBLが「BLという創作ジャンルの価値を牽引する」ものであり、はらださんの作品を初めとするBLという創作物の社会的意義というのはそこにあるのではないでしょうか。因の議論も盛んですが果はこれだと思うのです。そういう意味では男性こそBLを読んでみて良いと言えるのでしょう。

こんなしょうもないことを考えながらこいつはエロ本を読んでるのか? と言われてはどうしようもないのですけども、こんなのは後から考えたことで呼んでる最中は「ンフッ」とかしか考えてないですよ勿論。
それとはらださんの『よるとあさのうた』、最後のセックスシーンはあれは芸術です。富士山頂で初日の出を見たような感慨(?w)。あれほどエモーショナルで美しいゲイセックスシーンは今のところ、後にも先にも見ていません。

真空ホロウ「アナフィラキシーショック」、と嫉妬・劣等感のエロスについて(神様系BLの話)

※ 製作者様の意図とは一切関係がございません。

もとはスリーピースバンドとして始動し、ギタボの松本明人さんのソロ活動を経て現在はツーピースになったとか、ちょっと現状のよく解らないロックバンド真空ホロウですが、青春のビタースウィートとか窓越しの雨といったところの透明感とか、アンニュイさが素敵な音楽を製作されるバンドプロジェクトです。

その作品群の中でスリーピース時代のアルバム『少年A』収録「アナフィラキシーショック」、eikou的には非常に妄想をそそられる一曲でとても好きです。
タイトルのアナフィラキシーショックとは抗体抗原反応の一種で最悪死に至る危険性のある激しいアレルギー反応のことです。勿論曲中では比喩的に用いられていますがその抗原が「君」。

 「君の顔が頭の中をぐるぐる廻っている なんとも言えないこの敗北感」

「君」って誰なんでしょうね??????(^.^)

「君」に対して「アナフィラキシーショック」を起こしている「僕」の精神はいったいどういった状態にあるのでしょうか。エッジの利いた重激な曲調とダークポップな歌詞を紐解いてみますと、どうやら「僕」は「君」に対して劣等感を抱いている。しかも目を醒ました瞬間から激しく身を苛むほどの。ただ劣後を自認するのみならず自己嫌悪を伴う、即ち嫉妬を抱いています。
可愛いのが、ストレートに

  「今だってそう本当は好きなはずなのにな」

こう言っちゃっているところです。本当は「君」に憧れていて、大好きなんだと自覚はしているのですが棄てきれない自己愛もあるから「君」が嫌い。「君」の尊さが「僕」の自尊心を脅かすから。

曲自体のお話をしますと、私の予想では作詞されたギタボの松本さん御本人が、バンドが売れてきて有名なミュージシャン等と会う機会ができていざ憧れのミュージシャンと対面してみれば自分との格の違いを痛感させられた……みたいな、いえ真空ホロウさんは既に邦ロックシーンの一端を担う存在でありますけれども、御本人からするとそんな複雑な体験がおありになったのかな……など、曲の出自を空想してみるわけですけれども、この場合そんな事情など真実は解りませんので今回はこの曲を通じて憧憬と嫉妬と劣等感と、この辺りの萌えを語っていきます。補足ですが「君」を男性であると見て勝手に萌えさせていただいています。その正当性も無いことはないですので後ほど。

主体Sに対して対象をOとします。SがOに自分よりも優れている点を見出だすと、そこに感心、発展して尊敬が生まれます。更に発展するとOの理想化、美化、神格化が起こったりします。それがプライドと屈服の均衡具合によって「羨ましい(妬ましい)」と「尊い」に分岐するんですが両者は実に紙一重なんですよね。というか個人の中でも時によりどちらにも振れてしまう不安定なものであったりいずれにせよ無意識レヴェルでは「尊い」一択だと思うんです。Oを盲信し崇め奉ることもあれば、Oが尊い存在であると解っているからこそそんなOと自分との差異に打ちのめされ、尊い存在になれない自らを悔やむこともあるんですね。そしてこういった感情が浮き彫りになるのってやはり同性だからだと思うのです。比較実験は比較する条件以外の全ての条件に違いがないことが原則ですがまず異性である時点で見方によっては同じ土俵に乗っていないからです。だからやっぱりこの顕著かつ激烈な嫉妬の対象たる「君」は男なのだと思います。思いたい。
それで、「Oの持っているものを自分は持っていない」というのが嫉妬の根本要因で、嫉妬とはOの持っているそれへの渇望であるわけです。「Oの持っているものが欲しい。」すると自ずから「Oになってしまえばいい」という結論に行き着く。そうすればOの所有物は全て手に入る。だから「Oになりたい」と望むようになるのです。

 「僕君みたいになりたいと思っていた」

 「君になりたい」、そしてこれはまさに「恋」ではないでしょうか。恋とはOが欲しい、Oを独占したいという欲望であって、Oに完全に同一化したいというのは最高の恋、恋の究極だと思うのです。相手との合一を図るギリシャ的恋愛観の要素もちょっとありますがこの辺りにeikouの思う愛と恋の違いが潜んでいて、今回は省略と言いたいところですがやはり軽く触れておきましょう、私の思うに愛の究極はここではありません。「愛」の場合自分の存在は問題ではなく自分が多少苦しもうとも相手の幸福を追求するというのが愛で、その究極が自己犠牲のアガペーでしょう。などと書いているうちに2017年の冬アニメ『ユーリ!!on ICE』のことが想起されたりするわけですがまだ形になっておりませんのでそこは後日。

結論、「アナフィラキシーショック」は神様系男子←プライド高い男子という構図のツンデレラヴソングです。

この、嫉妬による執着のエロスは夏目漱石『こころ』の研究の重要テーマでもありますね。
とりあえずeikouが個人的に今のところ一番好きなBLが「一方的な崇拝と嫉妬を伴う神様系ホモ」でありますからめちゃくちゃフィットしているイメソンです。それから是非是非真空ホロウを聴いてみてくださいませ。おすすめは「娼年A」です。
ちなみにもし自分がこういった嫉妬や劣等感に苦しむような場面に遭遇したときには、「自分は神のような同級生(男)への劣等感を募らせる冴えない男子高校生であり、この後なんやかやで二人は近付いて憧れを告白しちゃったりして余裕ある接吻を頂いちゃったりするのだ」等と考えてみましょう、自分がすごく可愛く見えたりします。いや真面目な話、自分を客観視できたりして良いんじゃないですかね。ホモは心を穏やかにしますね。

歌詞の引用:「J-Lyric.net 真空ホロウ アナフィラキシーショック歌詞、jーlyric.net/artist/a05439b/l02cdaf.html アクセス日170416」

宗教萌え、神と真理への圧倒的受動性について

はじめに説明させていただきますと今日は、平たく言って「宗教はホモ」「神と人間の関係は萌え」という話を致します。先にお断りしておきますが諸々の宗教を冒涜する意志はございません。

宗教というものは多分にA感覚的性質を持つ現象であると思うのですが、「桜の樹の下には」のところで言及をお約束した仏教のそれのように個々の宗教が各々保有するポイントは今回はさておき、全体的に宗教という現象についてそのゆえんを突き詰めると信仰という行為のあり方に辿り着く気が致します。

信仰とは何であるか? というのは歴史の古い問ですが少なくとも何かをひたすら、時に無根拠に、信じることというのが基本的解釈でしょうけども、その信仰対象がヤハウェアッラー天照大神やアフラ=マズダやゼウス等々、様々な形で具現化される「神」という存在であるわけで、神とは何か? という問もまた、古今東西ポピュラーな疑問です。
人間は何を神と名付けなければならなかったのか? が問題であると思うのです。なぜ宗教は生まれたか、なぜ生まれなくてはならなかったのかという問と密接不可分なものですが、ここは本題でないので軽く行きますが突き詰めるとやはりそれは、即ち神は、宇宙の原理そのものであると考えられます。原始宗教の祭祀行為などは神に哀願することで豊作を願ったり天災を免れようとしたものらしい、またユダヤ教がバビロン捕囚をはじめとする民族の受難とそれからの解放への願いから生じたというのは定説ですが、あらゆる宗教は幸福を求めて、この世界を統べる原理に働きかけようとする行為なんですよね。神に願うこと=宇宙原理に働きかけること、でありますから、例えば古代インドのウパニシャッド哲学はそれをストレートにブラフマンという概念で示唆しましたけれど、神とは宇宙原理であるわけです。

余談ですが、このことは神は居るのか居ないのかという議論を無意味にします。神を「救ってくれるもの」だと思うから神の存在を疑うというような、この観点からすると全く見当違いなことが起こるわけです。神はあくまで「然るべき状態に導いてくれるもの」、与えられたものが我々が意識のほんの浅いところで求める慰安や快楽と異なることは十分あり得ます。

ということは、ここから本題です、神を信じ神に身を任せる信仰という行為は、世界=宇宙=神=真理への受動と言い換えることができます。
ベルニーニ作「聖テレサの法悦」という彫刻がありますがこれはエクスタシーつまり神との合一がもたらす神秘的境地を表現したもので、どうやら霊的体験の快感が極まって神と一体化した際に人はめっちゃ気持ち良い状態になるらしく、「法悦」はこのエクスタシーなのでありますけれども、至高のもの・完全なるものとの接触或いは完全なリンクを果たした際の恍惚については先述の「桜の~」の中にもすばらしい音楽を聴いたときに現れる幻惑などといった形で言及されていましたが、その根源的快楽こそまさにA感覚と言えるのではないでしょうか。Aが消化管を遡って宇宙へ至る入口であることは先日申し上げましたが、真理との交接という意味においてこの神人霊交によるエクスタシーはA感覚そのものであると言えます。この絶頂、完全無欠の幸福・平安・秩序を究極的には求めて人は信仰し祈る。祈りとは神とのsexです。暴論。

と仮定すると、聖テレサは女性ですが女性のエクスタシーはオーガズムに例えれば解りやすいのですけれども男性がエクスタシーに陥るとはどういうことのでしょう、射精でしょうか? そうなると精液の放出に象徴される何かが伴うわけですが神との交わりにおいて人間が「与える」べきものは皆無、即ち神に対し一方的かつ圧倒的「受動」なのです。従ってこの場合、宗教的境地において男性の感じるエクスタシーはA感覚の高まり即ちドライオーガズムなのであり、また神の愛に性差はないという意味から見ても女性の感じるそれも実は、Aによるものなのです。
いいですか、神に対して男性は圧倒的「受け」なのです。

この辺りが修道院という場所に香る(あくまで文学的意味においての)潜在的エロスですけれども、要するに信仰とは真理とのsexであり、その究極がAを通じたエクスタシーであり、「宗教はめっちゃホモ」であるわけです。
え? わからない? そうですか……


いずれA感覚と世界平和についても書かせていただきたいと思うのですが宗教とは幸福の追求であり世界への受動性を喚起するものですから、実質この一連の主張はその説明の一つではあります。

「桜の樹の下には」、と文友たちのプラットニックsexについて

檸檬」等で有名な文豪梶井基次郎の代表作の一つ「桜の樹の下には」、文庫本4ページほどに収まってしまう超短編ですが読後の満足感は分量以上のものがあります。

この作品におけるeikouの注目ポイントは以下3点。
①映像美
仏教的死生観
③聴き手は誰か←重要
ということでそれぞれについて詳しく語っていきましょう。

①映像美
これは読んでいただければお解りになると思いますが、現実風景と心象風景のオーバーラップし合う情景は非常に美しく幻惑的。色調や輪郭線に統一感があり、映像的美意識を持って編集された作品だという印象を受けます。前稿から削除された剃刀のくだりの意味について議論がされているようですがそういった取捨選択の一基準に映像的に美しいか否かというのがあったのだと思います。まあ百聞は一見に如かず。何より梶井のビジュアルを御存知でしょうか、あのどちらかというとゴリラ、ゴリラなんですけど、寄りの風貌の男がこのような繊細な世界を描き出したのだと思うとそれだけで萌えますね。芸術作品の萌えとは作品の内容のみならず作品と作者の関係からも喚起されるものなのでしょう。

仏教的死生観
仏教のA感覚的性質についてはまた別の機会に言及させていただきますが、エネルギーの移動を原理とした輪廻転生という死生観の側面から「生命の一元論」という性質が指摘できると一言記しておきます。
「桜の~」のテーマの1つがこの死生観だと思うのですが、つまり「生と死の循環」。エロスとタナトスという対義語がありますがエロスは性→生殖→生、タナトスは死で、この小説は両者を対比させながらその循環を描いています。生命が朽ちる死の惨劇から爆発的な生命の美が生まれる。人生の儚さの象徴とされる蜻蛉の、交尾と死との対比と連続もこれを強調します。この「死への意味付け」は事実若くして亡くなってしまう病弱な梶井自身の不確かな生への不安に根ざしているのでしょう。半ば願望のようなものを感じます。
また桜の美を生む「屍体」と、愛でるべき桜の美とがない混ざってネクロフィリア的エロス(これは「エロい」の意味)がある。

③聴き手は誰か
これは非常に考察のしがいがあるテーマで、「桜の~」は「俺」が「おまえ」に語り掛けるという形式の小説であるわけですが、この「お前」とは誰なのか? という議論はわりとされているらしい。こんな気色の悪い話を大人しく延々聴いてくれる人物は語り手といったいどういう関係性なのだろう。と考えると、いくつかの単語の性質も鑑みて、そして趣味も相俟って、男性の「文友」であるという線を私は推します。
語り手は、梶井自身或いはその投影であるとしておそらく誤りはない、というのもこの小説は主張小説であるからです。この小説は、おそらくはエンターテイメント小説とは異なり作者が自分の発見したアイデアを人に知ってもらうことを目的に書かれたものだと思います。「檸檬」等を読むと梶井の芸術家としての自己顕示欲が伺えますし、「桜の~」は小説のスタイルを取った梶井の主張であり、したがって作中の語り手は彼自身か或いはそれに限りなく近い性質の人物と考えられます。
そこでそれに対する聴き手を推測しますが、発表時1928年に梶井は20代終わり、既に「檸檬」を発表済みで彼の文学を認める者が僅かに(梶井は文壇に認められる間もなく死去している)居たことを考えると、このような梶井の思想語りに耳を傾ける文友が居てもいい。と思って調べますと小説家伊藤整が執筆前のこの思想を聴き感銘を受けたというエピソードがありました。(伊藤整『若い詩人の肖像』1958年新潮社)
伊藤整との関係がどれほどの深度であったかは解りませんが、一般に互いの思想や文学を内心で軽侮し内心で敬服し嫉内心で妬し合い高め合う、文友という関係性は深いプラトニックな交流が媒介し、その交流には、相手が自分を磨いてくれるだろうという打算的部分と、とは言ってもその一言では表せない、多分に敬愛や愛情の籠もった依存の部分とが含まれるように思います。得意になって、やや不安げに確かめるように、思想を語る語り手と、それをジャッジしてやろうとちょっと意気込みながら、なるほど悪くないと聴き入る聴き手、という構図が透視されるのです。

  「べたべたとまるで精液のやうだと思つてごらん。」(引用:梶井基次郎桜の樹の下には青空文庫、www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/47552_29611.html アクセス日170410)

「精液」というワードが、語り手の唇から紡がれ、聴き手の鼓膜を震わせ、認識される。これはもう言語上の中出しですよね(?)。
2人の文学青年が夜桜の下、デカダンな死性愛的憧憬に身を浸すこの情景は萌え以外の何物でもありません。


梶井作品の中でもう一つ外せないのが「Kの昇天」ですが、こちらについてもいずれ書かせていただきたいと考えております。